金日成が韓国人拉致、金正日は外国人も拉致を指令?拉致の全貌(2007/08/09)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2006.08.08)
8月2日、救う会全国協議会・救う会東京が主催した東京連続集会30で、講
師の惠谷 治氏が、北朝鮮による拉致の構図について、概要以下の報告を行い、
西岡力常任副会長、島田洋一副会長がコメントした。
■金日成が韓国人拉致、金正日は外国人も拉致を指令?拉致の全貌
金正日は、1973年に朝鮮労働党中央委員会書記になる。就任直後の8月に、
党の組織指導部の責任幹部に総括を指示した。北朝鮮では、各単位、各職場ごと
に生活総和という名の総括が行われているが、自己批判に加え、各単位、各職場
から他者批判を行わせるという恐怖の国民統治システムを導入した。これは以下
の伏線である。
74年に政治委員会(現在の政治局)委員になり、75年6月、党3号庁舎と
いう謀略・工作機関に対し検閲を開始する。拉致もその3号庁舎の役割だ。つま
り、拉致も、75年以前と、総括後とでは全く性質が違う。高敬美さん(当時6
歳)と剛君(当時3歳)が73年に日本から拉致された「高兄弟拉致事件」は、
75年以前の拉致を象徴する事件の一つである。
金日成の指令による拉致
ここで75年以前の拉致について概要をまとめてみたい。
金日成がソ連から帰国した。分断された朝鮮の北部は農業地域ではなく食糧不
足の問題があった。それだけでなく、多数の人材が南に逃げた。金日成は、人材
確保のために拉致を指令した。これは「金日成全集」第4巻に掲載されている。
朝鮮戦争は、ある意味で、南の人材を拉致するための戦争であったとも言える。
朝鮮戦争は1950年6月に始まるが、金日成はそれ以前に、韓国人を50万人
拉致する計画を立てている。そして、開戦後わずか3か月で、名前が明らかになっ
ている人だけで約9万人を拉致した。
数年前からその話は聞いていたが、戦争中は、戦争捕虜や混乱の中での行方不
明者が多数出るものなので、あって当然と考えていた。韓国政府は当時約8万5
千人という数字を出していたが、その後民間の団体が調査したところ少なくとも
9万人以上であったことが判明した。このケースをチェックすると、88%が開
戦直後に拉致され、男性が93%以上で年齢は30代、40代が大半で、農民が
60%ほどいるとはいえ、知識階級が多かった。そして、北朝鮮人民軍は拉致リ
ストを持ってソウルに入ってきた。市街地の自宅にジープで乗り付けて、拉致し
ていった。これは戦争捕虜ではなく明らかな拉致である。必要な人材をリストアッ
プして人民軍が拉致したのである。
拉致を実行したのは、人民軍偵察局である。拉致された中には、京大で勉強し
てソウルに帰っていた李升基という科学者がいた。彼を拉致した男である李学文
は英雄称号をもらっている。他にも拉致をして二重の英雄称号をもらっている。
偵察局が関与したというのがポイントだ。75年以後は偵察局の偵察員が拉致す
ることはほとんどなくなった。75年以前は、拉致はほとんど偵察員の犯行だっ
たわけである。
朝鮮戦争で、北朝鮮は、金日成の50万人拉致計画にしたがって裁判官何人、
教師何人という形で拉致を行った。特定失踪者問題調査会が最近、「マッピング
・リスト」を出したが、その中には印刷関係者、医療関係者などの分類があり、
金日成の計画に符合する。朝鮮戦争が53年に終わり、金正日が登場する75年
までの20年間の拉致はどうだったのか、まだ明確にはいい切れない。そこで、
仮説を出してみたい。
北朝鮮が日本人拉致をいつから計画したのか証言者もいないし、文献にもない。
金日成がソ連から帰り、朝鮮共産党から朝鮮労働党まで色々な変遷があったが、
最初を除いてすべて金日成が委員長職を続けた。1956年の「金日成著作集」
第21卷を見ると、金日成は、「これまで行政の仕事が忙しくて党を掌握するこ
とができなかった」と告白している。45年にソ連から帰国し、ソ連の力を借り
て労働党委員長になり、共和国首相もやり、その間に朝鮮戦争もやったが、この
間、行政の長としての活動が忙しく、ほとんど党に重きを置いてこなかった。こ
の間、党は、ソ連派とされるソ連から送り込まれた許嘉誼(ホ・ガイ)に握られ
ていた。従って、金日成は56年以降、党を掌握するためにソ連派を粛清する。
1つのポイントは、56年以前も拉致はあっただろうが、党は動いていないとい
うことだ。
59年に、金日成の弟の金英柱(キム・ヨンジュ)が党組織指導部長になる。
今も3号庁舎筆頭の組織である党連絡部という組織があるが、50年代は、党組
織部の中に連絡部があった。なお、党組織指導部という名称は金英柱が部長になっ
た時に新しく作られた。61年9月に、第4回党大会が行われた。この大会で、
地下党の統一化あるいは反米統一戦線などが決定され、当時の内務省や民族保衛
省(現在の人民武力部)などの対南工作機関を統一して、党連絡局を作った。ここ
は私の仮説だが、党連絡局に、党組織指導部も、その配下にあった連絡部も吸収
されたと思う。文献等ではまだ確認されていないが、いずれにしろ61年に党連
絡局が作られた段階で、日本人拉致も計画されたと想定できる。
党連絡局は62年2月に、対南事業総局という名称に変わる。ここまでくると
段々拉致とはどういう事件であったかが見えてくる。対南事業総局に名称変更を
するとともに、工作員養成機関である「695部隊」、現在の金正日政治軍事大
学の前身が創設される。この段階で、工作員を養成するための外国人拉致が計画
されたかどうかは未だ不明である。
1963年5月に「寺越事件」が起こり、3人が拉致された。同じ年、6月1
日に海上保安庁が最も古い不審船事件があったと発表している。酒田市沖で起こっ
たものだが、船の撮影はされていない。その後は船が撮影されている。
いわゆる工作船は、漁船を偽装したものだが、いつ始まったかは明確になって
いない。しかし、この年、拉致事件が起こったことは明白だ。私は拉致を、遭遇
拉致、条件拉致、指名拉致と分類しているが、「寺越事件」は遭遇拉致だ。工作
員が偶発的に目撃されたため、あるいは目撃されたと感じて拉致するものだ。し
かし、よく考えると犯行を目撃された場合、「目撃者は消せ」というのがこの世
界の基本だ。叔父の寺越昭二さんが、まだ少年だった寺越武志さんをかばって射
殺されたようだが、武志さんと昭二さんの弟の外雄さんが清津に拉致された。
そこがポイントだと思う。62年に対南事業総局ができる。今後必要な人材を
拉致する、日本からも拉致するという指示や雰囲気がない限り、目撃者は消せば
よかった筈である。しかし、二人は拉致された。この段階で日本人拉致の計画が
あったのではないか。
なお、条件拉致とういうのは例えば20代の女性とか一定の職業経験者などあ
る程度幅をもって条件を指示するもので、指名拉致というのは人物を特定して拉
致を指令することを言う。
また、特定失踪者問題調査会のマッピング・リストによれば、拉致された可能
性のある職業別の事例は、医療関係者が59年からいくつかの事例がある。その
他、電話関係者が69年から、印刷関係者が58年から、核・ミサイル関係者が
60年からとなっており、その他男女のカップルが63年からである。
私の仮説では、62年以降、または63年以降は、金日成が朝鮮戦争で行った
拉致の方法を想定すると、日本からも職業別の拉致を行ったと考えられる。
1967年に「唯一思想体系」が生まれ、金日成の独裁が完成する。というこ
とは党の権力も完全に握ったということだ。そして金日成に反対する勢力はいな
くなった。69年に、党に内閣総情報局が作られるが、詳しい実態は分からない。
その下に、連絡部、調査部、文化部が置かれ、その他に朝鮮総連担当の部も作ら
れた。これが現在の3号庁舎の前身である。この内閣総情報局と先ほどの対南事
業総局との関係が分からない。しかし、3号庁舎の原型ができた。
72年に、金日成憲法といわれる憲法で金日成が国家主席になり、完全な独裁
体制になる。その後73年に金正日が出てきて、75年から総括を始めた。
「高兄弟拉致事件」に関わった「ユニバース・トレーディング」という会社は、
朝鮮総連の金炳植第一副議長が71年に作った会社で、渡辺秀子さんの夫である
在日の朝鮮人工作員が関与していた。工作員の妻である渡辺秀子さんが、行方不
明の夫を探すため子ども二人とともに会社周辺を歩いていて工作員に発見され拉
致された。これも遭遇拉致だ。金正日の拉致方式とは関係がない。母親は監禁後
殺害され、子どもはその後北朝鮮に拉致されたといわれる。
金正日の指令による拉致
そして75年6月に金正日による総括が始まり、10月末から総括会議が10
日間あり、金正日が「朝鮮総連は日本の公安当局にマークされており、そんな総
連をどうして使うのか。工作が発覚する最大の理由になる」と批判した。75年
以前は、総連関係者が本国の指示を受けて、拉致を実行したことはほぼ間違いな
い。総連の学習組という秘密組織が担当したと思うが、金正日は、「総連は使う
な」と指示した。総連を信用しなかったのかどうかは分からないが、金正日はそ
の後、総連を監視する工作員を派遣している。
そして、75年11月から、かつての方法を廃止し新しい方法を指示したとい
うことは、逆に言えば、それまで総連が協力していたことは間違いない、という
ことになる。
もう一つ大事なことは、工作船の問題。北朝鮮による過去のスパイ事件の調書
を読むと、60年代までは、日本の船を買って、その船で夜陰に乗じて入港する
というものであった。しかし、いつからかは分からないが、その後工作船のシス
テムが変わった。1970年に工作船の写真が初めて撮られており、その形体は
今日まで変わらない。
工作船は、3号庁舎の作戦部が運用する。拉致のターゲットへの接近や、海岸
までの誘導は基本的に調査部が担当する。この調査部は75年の新方式以降のこ
とで、それ以前は連絡部が担当していた。党関係の拉致実行犯は、75年以降は
調査部だが、それ以前は、軍の偵察員が関わったものが多く、いつからかは分か
らないが党に担当が変わった。
拉致実行犯の辛光洙が日本に初めて来た時は軍偵察局の偵察員だった。金正日
の検閲後は、そういう人を本国に召還し、使える人間のみを使うことにした。使
えない人間は引退させ、使える可能性のある人間は、保留とした。辛光洙は見事
に選ばれ、一定の再訓練後、調査部に入り再び拉致を実行したことになる。
拉致で、作戦部と調査部を使うということは、それらを統括する上の部署があっ
たことが想定される。それが69年に作られた党の内閣総情報局であったかもし
れない。これも金正日の検閲後に新たな組織になっているのではないか。金正日
は内閣総情報局の傘下にあった文化部をまず解体した。文化部が工作船を運用し
ていたが、これを単なる研究機関とし、作戦部を新たに作り、呉克烈を部長につ
け、工作船の運用は作戦部の担当にした。呉克烈はモスクワに留学した優秀な男
とされている。彼が作戦部を取り仕切るようになって工作活動全体がうまくいく
ようになったという。これで現在に至る3号庁舎の全容が明らかになった。
さらに、文化部を解体した後、77年に統一戦線部が作られる。今、この統一
戦線部が朝鮮総連を含め日本担当となっているが、当初は連絡部が担当していた。
従って、よど号ハイジャック事件の時は連絡部がよど号犯を担当していた。金日
成が5月6日によど号犯に面会したということから、連絡部に56課という名称
のよど号犯の担当の組織が作られた。その後、韓国以外は調査部が担当すること
になったが、よど号犯担当の56課は連絡部に残された。
金正日が、韓国の女優尹静姫の拉致を連絡部に指令したが失敗し、調査部に韓
国の女優崔銀姫の拉致を指令して成功したので、調査部は優秀とされ、忠誠心競
争をさせられた。
日本人拉致については、76年以降は調査部が担当したが、75年以前は連絡
部がやっていた。
76年に作戦部ができ、そこに956部隊が作られた。これが現在の金正日政
治軍事大学で、この間名称が色々変わった。ここは拉致実行犯養成機関で、基本
的に作戦部の人材を養成するものである。4つの班があり、案内班、航海班、通
信班、機関班。この中の案内班が拉致実行犯養成機関である。現場の地形を熟知
し、工作員を現場に連れて行き無事に上陸させる。また連れ帰る等が担当である。
他は工作船の運用が担当。
4つの班を卒業すると戦闘員と呼ばれ、工作員とは呼ばれない。例えば、安明
進氏は拉致工作員と言われているが、実際は戦闘員で、正確には案内戦闘員であ
る。案内班に一番優秀な人材が選ばれる。腕っ節が強い必要がある。当初2年で
卒業だったが、後に4年卒業、6年卒業となった。
別に、金正日政治軍事大学の分校というのがあるが、ここが工作員を養成する
ところで、KAL機を爆破した金賢姫はここの一期生で工作員である。工作員は
腕っ節より、頭脳が求められる。大卒なら1年、高卒なら2年で卒業する。ここに
日本人教官がいる。
ソウルで元工作員の同窓会のような集まりがあるが、調査部出身が偉いとされ、
作戦部出身はおとしめられると聞いた。調査部出身の工作員から見れば、作戦部
出身の戦闘員は、いわば船の運転手くらいにしか思っていないという。
しかし、調査部の工作員が本当の拉致実行犯だ。工作員が日本に侵入し、リス
トをもらって特定の人物をターゲットにする場合もあれば、時間をかけて親しく
なり海岸まで連れ出すこともある。その間に本国と連絡を取り、指示を受け、現
場に作戦部の案内戦闘員が来る。
金正日が指令する前からやっていたと思うが、深夜、工作母船が日本に接近し、
工作母船から子船が出て、子船からゴムボートが出て海岸に付けるという3段階
方式だ。ゴムボートには案内員が3人乗り海岸に近づく。海岸に工作員が待ち構
えている。当初はコンコンという打石信号で連絡していたが、次に懐中電灯になっ
た。これらはいずれもリスクがあった筈で、その後トランシーバーになった。ス
イッチを付けたり、切ったりする音だけで連絡していた。90年代終わりからは
携帯電話やメールで連絡を取っている。かつては、今日決行という日には、平壌
放送で、決まった音楽を流したりしていた。それが今では携帯になった。
ということは、作戦部が海から来る。日本側から調査部が拉致被害者を連れて
来る。そうなると、二つの組織をコントロールすることが必要になる。私の仮説
は、調査部の副部長か課長が全体の指揮を行ったのではないか、ということだ。
以上が、まだ仮設ではあるが拉致の全貌だ。なお、これまで話したことは拉致
に限定して話したもので、これ以外にも色々な工作活動がある。また、ユニバー
ス・トレーディングのようなダミー会社も色々な役割をする。この会社に、よど
号犯の柴田の関係者がいたことが分かっていたのに、もっと早くから追求できな
かったことを苦々しく思う。今後もこのような会社が浮上してくるのではないか。
75年までは総連が拉致に関わったが、76年以降はどうだったのか。当然協
力させられた。工作員が浸透してくると、総連関係者のネットワークが宿や色々
な偽装で協力した。ただ、協力させられた人物は、その工作員が何者で、何の目
的で来たのか知らされていない。ここが76年以降の違うところだ。
コメント 西岡力常任副会長
76年の前と後との違いについては一つの根拠がある。『金正日と対南工作』
という1996年にソウルで出版された本がそうだ。申ピョンギル(仮名)とい
う3号庁舎の元工作員が書いた。シンは南出身で、朝鮮戦争の時北朝鮮に行った
元労働党工作員だ。その後、ある時期に転向し、韓国の情報機関に協力した。数
年前に死亡しているが、会った人の話では、大変記憶力のいい人だったという。
著書の主要部分は、月刊『現代コリア』に、荒木信子さんが翻訳している。
その本の中で申氏は75年から76年にかけて工作機関の中で何があったのか
をくわしく書いている。申氏は75年から76年当時、平壌に現役の工作員とし
ていたのではないかとのことだ。75年に、惠谷さんの話の通り、金正日が工作
機関のあり方について大検閲をする。申氏の本からその部分を紹介しよう。
75年11月3日に大会議が終わり、そこで金正日が結論を出した。
「金正日は1950年代以来1970年代までの対南工作は、一言で言って零点
だ」と言った。そして、「この結論は、自分の結論ではなく、金日成に報告した
あと金日成が下した結論だ」と述べた。金正日が「一番最初に指摘したのは、幹
部事業、すなわち人事問題が間違っていたということだ。工作員の選抜、教育、
訓練が間違いを犯していた」。「対南工作員は革命家であって、革命家的素養の
ない人間を革命工作に動員して工作がうまくいくだろうか。政治素養のある人間
でも、まともな教育、訓練、指導を受けなければならない」と言った。つまり、
工作員の教育もだめだし、選抜もダメだと第一に指摘した。
そこには過去を分析して過去から学ぶという側面と、過去に指導した金正日の
系列ではない幹部たちを追い出し工作機関を自分が掌握するという二つの側面が
ある。今ここで議論しているユニバース・トレーディングの問題は、合法活動と
非合法活動があいまいになっていて、今、具体的なことが明らかになってきてい
る。朝鮮総連の副議長が関与するような非合法活動もやっていたということは、
人事上の問題があったといわれても仕方がない工作活動であった、ということに
なるだろう。
惠谷さんが言ったようにそこで金正日は、当時の数千人に及ぶ工作員を再整理
した。そして、3つの分類に分けた。金正日は、「革命の指導核心が必要とし、
指導核心をきちんと育てなくてはいけない」と言っている。そして、「指導核心
の基準を満たす人間は新しい基準で再訓練した」。この中に辛光洙も入るし、蓮
池さんを拉致した朴某こと崔スンチョル、曽我さんを拉致した女性工作員金ミョ
ンスクも入る。この第1分類の人間も再教育をした。75年に検閲があり、76
年初めに新方針が出るが、それから数千人の工作員の再教育が行われた。辛光洙
など日本にいた工作員も一度帰っている。辛光洙は77年に日本に再潜入しめぐ
みさん拉致を行い、78年に地村さんらを拉致した。朴某こと崔スンチョルも7
8年に戻って蓮池さんらを拉致したし、金ミョンスクは78年の曽我さん拉致以
前の足取りが分かっていないが、多分辛光洙らと同じく76年に再教育を受けた
後、78年8月佐渡に潜入して曽我さん親子を拉致した。
第2分類は、「指導核心の基準には満たないものの、有事の際には起用できる
人物で」、「有事の場合に即時召還できるように各機関の顧問にする」とある。
従って、工作機関の中に置くが現役でなく顧問とした。第3分類の「全く基準に
満たない者は一般の職場に放出した」ということだ。
申氏によると、金正日は工作機関の大規模検閲を行ってその結論として75年
11月にこれまでの工作活動の成果はゼロと評価し、76年初めに新しい方針を
示した。「金正日は工作員の育成体系も変えなければならないと主張した。即ち
工作員が政治思想、実務能力を保有できるように教育しなければならず、南朝鮮
など資本主義社会に適応できるように技術、生活習慣、言語、風俗などを教えな
ければならない」。「金正日は、工作員が、『現地化、敵区化』できるように教
育体系を変えなければならないと釘をさした」。「金正日は、指導核心を持って
なぜ革命ができるのだろうか。現在の教訓だけでなく、過去の歴史的なことでも
そのことが教えられる」、「すべての工作員を変えろと言った」とそのとき金正
日が示した新方針を申氏は記している。
工作員の指導核心を育てる教育については、「金正日は指導核心が工作戦術に
おいてすべての側面で、合法的でなければならないと主張した。合法的な身分と
職業をもたなければならない」と主張した。「法律的に合法的な身分を得るには
時間がかかるが、南朝鮮に浸透してすぐに社会的な身分を得なければならず生活
習慣上完全に同化されていなければならない」、「そのためには彼らに対する教
育で、多様な職業技術を教えなければならず、南朝鮮化、現地化のために努力し
なければならないと強調した。南の歌も歌い、南の喫茶店や食堂や料亭にも自由
に出入りでき、旅館・ホテルを利用しても全くおかしなことがないだけでなく、
商売をしても大丈夫なように現地適応教育をしなければならないと主張した」、
「そのためこのような教育は短期間ではできないので、1、2年以上の長期教育
を実施しなければならない」、「金正日は第三国迂回工作においては、工作員が
外国人の身分で合法化されなければならない。日本に行けば日本人として、中国
に行けば中国人として、カンボジアに行けばカンボジア人にならなければならな
い。言語・習慣・職業問題を合法的に解決できなければならないと強調した。金
正日は現地人として同化できれば、工作はいくらでも自由にできると付け加えた」、
「大韓航空機爆破事件の主犯である金賢姫が日本語を自由に話すことができたの
も、この教育の成果だ」と書いてある。申氏は、幹部として会議には出て金正日
の新方針を直接聞いたか、その後工作員の第1分類に選ばれて受けた中で金正日
の新方針をくわしく学んだかどちらかだと思われる。だから具体的に金正日の方
針を本に書くことができたのだ。安明進氏が金正日政治軍事大学の必修科目「主
体哲学」で学習したのがまさにこれだったという。
申氏の本にはさらにこのようなことも書いてある。
「対南工作の目標は2つある。南朝鮮革命と南北統一だ。しかし戦術的には、南
朝鮮革命と南北統一を分けなければならない。それを混同していたために今まで
の混乱が起こった。南朝鮮革命は、南の人間が主体となって南に地下党を作り、
統一戦線を作らせなければならない。南北統一は全朝鮮でやるもので、これを混
同したのがこれまでの間違いであった」とある。
安明進氏は、98年に『北朝鮮拉致工作員』という本を出したが、この中に書
かれていないことがある。彼は後で、「怖くて書けなかった」と言っていたが、
それは「拉致は金正日が指令した」ということだった。当初の原稿にはあったの
だが、当局に「身の安全のために書くな」と言われ落としたということだった。
金正日の義理の甥の李韓永が手記を出版したため、韓国に亡命中の97年に、北
朝鮮から送り込まれた工作員に殺害されたという事件もあった。安明進は、金正
日政治軍事大学の「南朝鮮革命史」、「主体哲学」などの科目で、金正日が後継
者に指名された直後の70年代半ばに工作機関の過去の活動を総点検して成果は
ゼロだと断定し、新たな方針を打ち立て、工作員の教育も変えたこと、工作員の
現地化を徹底的に行え、そのために現地人の教師を連れてこいと命令し、拉致が
大々的に行われたことを金正日指令による成功事例として学んだと述べている。
この二つの証言がここで一致した。
76年初めに指令が出て、現地から工作員が呼び戻され、指導核心に分類され
た工作員の再教育が行われて金正日の新方針を学ばされ、彼らが再派遣され77
年、78年に世界各地で拉致が行われたのである。日本政府認定の17人のうち、
16人は77年、78年、80年の拉致である。また、金正日は工作員の待遇を
よくした。再教育で工作員として残された辛光洙らは辞めさせられないように、
争うように拉致を行ったのだろう。鹿児島における市川さん・増元さんの拉致と、
佐渡における曽我さん母子の拉致が同じ日に拉致されたのをみてもそれが分かる。
コメント(島田洋一副会長)
射殺されたとされる寺越昭二さんの事件、高兄弟の拉致においてその母渡辺秀
子さんが殺害されたとされる事件、安明進さんの証言で、北朝鮮工作員が拉致す
るに当たりみぞおちを強打して殺害してしまった事件があることなど、変死者問
題の洗い直しをすべきである。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
●安倍首相にメール・葉書を
首相官邸のホームページに「ご意見募集」があります。
下記をクリックして、ご意見を送ってください。
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安倍晋三殿
●救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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8月2日、救う会全国協議会・救う会東京が主催した東京連続集会30で、講
師の惠谷 治氏が、北朝鮮による拉致の構図について、概要以下の報告を行い、
西岡力常任副会長、島田洋一副会長がコメントした。
■金日成が韓国人拉致、金正日は外国人も拉致を指令?拉致の全貌
金正日は、1973年に朝鮮労働党中央委員会書記になる。就任直後の8月に、
党の組織指導部の責任幹部に総括を指示した。北朝鮮では、各単位、各職場ごと
に生活総和という名の総括が行われているが、自己批判に加え、各単位、各職場
から他者批判を行わせるという恐怖の国民統治システムを導入した。これは以下
の伏線である。
74年に政治委員会(現在の政治局)委員になり、75年6月、党3号庁舎と
いう謀略・工作機関に対し検閲を開始する。拉致もその3号庁舎の役割だ。つま
り、拉致も、75年以前と、総括後とでは全く性質が違う。高敬美さん(当時6
歳)と剛君(当時3歳)が73年に日本から拉致された「高兄弟拉致事件」は、
75年以前の拉致を象徴する事件の一つである。
金日成の指令による拉致
ここで75年以前の拉致について概要をまとめてみたい。
金日成がソ連から帰国した。分断された朝鮮の北部は農業地域ではなく食糧不
足の問題があった。それだけでなく、多数の人材が南に逃げた。金日成は、人材
確保のために拉致を指令した。これは「金日成全集」第4巻に掲載されている。
朝鮮戦争は、ある意味で、南の人材を拉致するための戦争であったとも言える。
朝鮮戦争は1950年6月に始まるが、金日成はそれ以前に、韓国人を50万人
拉致する計画を立てている。そして、開戦後わずか3か月で、名前が明らかになっ
ている人だけで約9万人を拉致した。
数年前からその話は聞いていたが、戦争中は、戦争捕虜や混乱の中での行方不
明者が多数出るものなので、あって当然と考えていた。韓国政府は当時約8万5
千人という数字を出していたが、その後民間の団体が調査したところ少なくとも
9万人以上であったことが判明した。このケースをチェックすると、88%が開
戦直後に拉致され、男性が93%以上で年齢は30代、40代が大半で、農民が
60%ほどいるとはいえ、知識階級が多かった。そして、北朝鮮人民軍は拉致リ
ストを持ってソウルに入ってきた。市街地の自宅にジープで乗り付けて、拉致し
ていった。これは戦争捕虜ではなく明らかな拉致である。必要な人材をリストアッ
プして人民軍が拉致したのである。
拉致を実行したのは、人民軍偵察局である。拉致された中には、京大で勉強し
てソウルに帰っていた李升基という科学者がいた。彼を拉致した男である李学文
は英雄称号をもらっている。他にも拉致をして二重の英雄称号をもらっている。
偵察局が関与したというのがポイントだ。75年以後は偵察局の偵察員が拉致す
ることはほとんどなくなった。75年以前は、拉致はほとんど偵察員の犯行だっ
たわけである。
朝鮮戦争で、北朝鮮は、金日成の50万人拉致計画にしたがって裁判官何人、
教師何人という形で拉致を行った。特定失踪者問題調査会が最近、「マッピング
・リスト」を出したが、その中には印刷関係者、医療関係者などの分類があり、
金日成の計画に符合する。朝鮮戦争が53年に終わり、金正日が登場する75年
までの20年間の拉致はどうだったのか、まだ明確にはいい切れない。そこで、
仮説を出してみたい。
北朝鮮が日本人拉致をいつから計画したのか証言者もいないし、文献にもない。
金日成がソ連から帰り、朝鮮共産党から朝鮮労働党まで色々な変遷があったが、
最初を除いてすべて金日成が委員長職を続けた。1956年の「金日成著作集」
第21卷を見ると、金日成は、「これまで行政の仕事が忙しくて党を掌握するこ
とができなかった」と告白している。45年にソ連から帰国し、ソ連の力を借り
て労働党委員長になり、共和国首相もやり、その間に朝鮮戦争もやったが、この
間、行政の長としての活動が忙しく、ほとんど党に重きを置いてこなかった。こ
の間、党は、ソ連派とされるソ連から送り込まれた許嘉誼(ホ・ガイ)に握られ
ていた。従って、金日成は56年以降、党を掌握するためにソ連派を粛清する。
1つのポイントは、56年以前も拉致はあっただろうが、党は動いていないとい
うことだ。
59年に、金日成の弟の金英柱(キム・ヨンジュ)が党組織指導部長になる。
今も3号庁舎筆頭の組織である党連絡部という組織があるが、50年代は、党組
織部の中に連絡部があった。なお、党組織指導部という名称は金英柱が部長になっ
た時に新しく作られた。61年9月に、第4回党大会が行われた。この大会で、
地下党の統一化あるいは反米統一戦線などが決定され、当時の内務省や民族保衛
省(現在の人民武力部)などの対南工作機関を統一して、党連絡局を作った。ここ
は私の仮説だが、党連絡局に、党組織指導部も、その配下にあった連絡部も吸収
されたと思う。文献等ではまだ確認されていないが、いずれにしろ61年に党連
絡局が作られた段階で、日本人拉致も計画されたと想定できる。
党連絡局は62年2月に、対南事業総局という名称に変わる。ここまでくると
段々拉致とはどういう事件であったかが見えてくる。対南事業総局に名称変更を
するとともに、工作員養成機関である「695部隊」、現在の金正日政治軍事大
学の前身が創設される。この段階で、工作員を養成するための外国人拉致が計画
されたかどうかは未だ不明である。
1963年5月に「寺越事件」が起こり、3人が拉致された。同じ年、6月1
日に海上保安庁が最も古い不審船事件があったと発表している。酒田市沖で起こっ
たものだが、船の撮影はされていない。その後は船が撮影されている。
いわゆる工作船は、漁船を偽装したものだが、いつ始まったかは明確になって
いない。しかし、この年、拉致事件が起こったことは明白だ。私は拉致を、遭遇
拉致、条件拉致、指名拉致と分類しているが、「寺越事件」は遭遇拉致だ。工作
員が偶発的に目撃されたため、あるいは目撃されたと感じて拉致するものだ。し
かし、よく考えると犯行を目撃された場合、「目撃者は消せ」というのがこの世
界の基本だ。叔父の寺越昭二さんが、まだ少年だった寺越武志さんをかばって射
殺されたようだが、武志さんと昭二さんの弟の外雄さんが清津に拉致された。
そこがポイントだと思う。62年に対南事業総局ができる。今後必要な人材を
拉致する、日本からも拉致するという指示や雰囲気がない限り、目撃者は消せば
よかった筈である。しかし、二人は拉致された。この段階で日本人拉致の計画が
あったのではないか。
なお、条件拉致とういうのは例えば20代の女性とか一定の職業経験者などあ
る程度幅をもって条件を指示するもので、指名拉致というのは人物を特定して拉
致を指令することを言う。
また、特定失踪者問題調査会のマッピング・リストによれば、拉致された可能
性のある職業別の事例は、医療関係者が59年からいくつかの事例がある。その
他、電話関係者が69年から、印刷関係者が58年から、核・ミサイル関係者が
60年からとなっており、その他男女のカップルが63年からである。
私の仮説では、62年以降、または63年以降は、金日成が朝鮮戦争で行った
拉致の方法を想定すると、日本からも職業別の拉致を行ったと考えられる。
1967年に「唯一思想体系」が生まれ、金日成の独裁が完成する。というこ
とは党の権力も完全に握ったということだ。そして金日成に反対する勢力はいな
くなった。69年に、党に内閣総情報局が作られるが、詳しい実態は分からない。
その下に、連絡部、調査部、文化部が置かれ、その他に朝鮮総連担当の部も作ら
れた。これが現在の3号庁舎の前身である。この内閣総情報局と先ほどの対南事
業総局との関係が分からない。しかし、3号庁舎の原型ができた。
72年に、金日成憲法といわれる憲法で金日成が国家主席になり、完全な独裁
体制になる。その後73年に金正日が出てきて、75年から総括を始めた。
「高兄弟拉致事件」に関わった「ユニバース・トレーディング」という会社は、
朝鮮総連の金炳植第一副議長が71年に作った会社で、渡辺秀子さんの夫である
在日の朝鮮人工作員が関与していた。工作員の妻である渡辺秀子さんが、行方不
明の夫を探すため子ども二人とともに会社周辺を歩いていて工作員に発見され拉
致された。これも遭遇拉致だ。金正日の拉致方式とは関係がない。母親は監禁後
殺害され、子どもはその後北朝鮮に拉致されたといわれる。
金正日の指令による拉致
そして75年6月に金正日による総括が始まり、10月末から総括会議が10
日間あり、金正日が「朝鮮総連は日本の公安当局にマークされており、そんな総
連をどうして使うのか。工作が発覚する最大の理由になる」と批判した。75年
以前は、総連関係者が本国の指示を受けて、拉致を実行したことはほぼ間違いな
い。総連の学習組という秘密組織が担当したと思うが、金正日は、「総連は使う
な」と指示した。総連を信用しなかったのかどうかは分からないが、金正日はそ
の後、総連を監視する工作員を派遣している。
そして、75年11月から、かつての方法を廃止し新しい方法を指示したとい
うことは、逆に言えば、それまで総連が協力していたことは間違いない、という
ことになる。
もう一つ大事なことは、工作船の問題。北朝鮮による過去のスパイ事件の調書
を読むと、60年代までは、日本の船を買って、その船で夜陰に乗じて入港する
というものであった。しかし、いつからかは分からないが、その後工作船のシス
テムが変わった。1970年に工作船の写真が初めて撮られており、その形体は
今日まで変わらない。
工作船は、3号庁舎の作戦部が運用する。拉致のターゲットへの接近や、海岸
までの誘導は基本的に調査部が担当する。この調査部は75年の新方式以降のこ
とで、それ以前は連絡部が担当していた。党関係の拉致実行犯は、75年以降は
調査部だが、それ以前は、軍の偵察員が関わったものが多く、いつからかは分か
らないが党に担当が変わった。
拉致実行犯の辛光洙が日本に初めて来た時は軍偵察局の偵察員だった。金正日
の検閲後は、そういう人を本国に召還し、使える人間のみを使うことにした。使
えない人間は引退させ、使える可能性のある人間は、保留とした。辛光洙は見事
に選ばれ、一定の再訓練後、調査部に入り再び拉致を実行したことになる。
拉致で、作戦部と調査部を使うということは、それらを統括する上の部署があっ
たことが想定される。それが69年に作られた党の内閣総情報局であったかもし
れない。これも金正日の検閲後に新たな組織になっているのではないか。金正日
は内閣総情報局の傘下にあった文化部をまず解体した。文化部が工作船を運用し
ていたが、これを単なる研究機関とし、作戦部を新たに作り、呉克烈を部長につ
け、工作船の運用は作戦部の担当にした。呉克烈はモスクワに留学した優秀な男
とされている。彼が作戦部を取り仕切るようになって工作活動全体がうまくいく
ようになったという。これで現在に至る3号庁舎の全容が明らかになった。
さらに、文化部を解体した後、77年に統一戦線部が作られる。今、この統一
戦線部が朝鮮総連を含め日本担当となっているが、当初は連絡部が担当していた。
従って、よど号ハイジャック事件の時は連絡部がよど号犯を担当していた。金日
成が5月6日によど号犯に面会したということから、連絡部に56課という名称
のよど号犯の担当の組織が作られた。その後、韓国以外は調査部が担当すること
になったが、よど号犯担当の56課は連絡部に残された。
金正日が、韓国の女優尹静姫の拉致を連絡部に指令したが失敗し、調査部に韓
国の女優崔銀姫の拉致を指令して成功したので、調査部は優秀とされ、忠誠心競
争をさせられた。
日本人拉致については、76年以降は調査部が担当したが、75年以前は連絡
部がやっていた。
76年に作戦部ができ、そこに956部隊が作られた。これが現在の金正日政
治軍事大学で、この間名称が色々変わった。ここは拉致実行犯養成機関で、基本
的に作戦部の人材を養成するものである。4つの班があり、案内班、航海班、通
信班、機関班。この中の案内班が拉致実行犯養成機関である。現場の地形を熟知
し、工作員を現場に連れて行き無事に上陸させる。また連れ帰る等が担当である。
他は工作船の運用が担当。
4つの班を卒業すると戦闘員と呼ばれ、工作員とは呼ばれない。例えば、安明
進氏は拉致工作員と言われているが、実際は戦闘員で、正確には案内戦闘員であ
る。案内班に一番優秀な人材が選ばれる。腕っ節が強い必要がある。当初2年で
卒業だったが、後に4年卒業、6年卒業となった。
別に、金正日政治軍事大学の分校というのがあるが、ここが工作員を養成する
ところで、KAL機を爆破した金賢姫はここの一期生で工作員である。工作員は
腕っ節より、頭脳が求められる。大卒なら1年、高卒なら2年で卒業する。ここに
日本人教官がいる。
ソウルで元工作員の同窓会のような集まりがあるが、調査部出身が偉いとされ、
作戦部出身はおとしめられると聞いた。調査部出身の工作員から見れば、作戦部
出身の戦闘員は、いわば船の運転手くらいにしか思っていないという。
しかし、調査部の工作員が本当の拉致実行犯だ。工作員が日本に侵入し、リス
トをもらって特定の人物をターゲットにする場合もあれば、時間をかけて親しく
なり海岸まで連れ出すこともある。その間に本国と連絡を取り、指示を受け、現
場に作戦部の案内戦闘員が来る。
金正日が指令する前からやっていたと思うが、深夜、工作母船が日本に接近し、
工作母船から子船が出て、子船からゴムボートが出て海岸に付けるという3段階
方式だ。ゴムボートには案内員が3人乗り海岸に近づく。海岸に工作員が待ち構
えている。当初はコンコンという打石信号で連絡していたが、次に懐中電灯になっ
た。これらはいずれもリスクがあった筈で、その後トランシーバーになった。ス
イッチを付けたり、切ったりする音だけで連絡していた。90年代終わりからは
携帯電話やメールで連絡を取っている。かつては、今日決行という日には、平壌
放送で、決まった音楽を流したりしていた。それが今では携帯になった。
ということは、作戦部が海から来る。日本側から調査部が拉致被害者を連れて
来る。そうなると、二つの組織をコントロールすることが必要になる。私の仮説
は、調査部の副部長か課長が全体の指揮を行ったのではないか、ということだ。
以上が、まだ仮設ではあるが拉致の全貌だ。なお、これまで話したことは拉致
に限定して話したもので、これ以外にも色々な工作活動がある。また、ユニバー
ス・トレーディングのようなダミー会社も色々な役割をする。この会社に、よど
号犯の柴田の関係者がいたことが分かっていたのに、もっと早くから追求できな
かったことを苦々しく思う。今後もこのような会社が浮上してくるのではないか。
75年までは総連が拉致に関わったが、76年以降はどうだったのか。当然協
力させられた。工作員が浸透してくると、総連関係者のネットワークが宿や色々
な偽装で協力した。ただ、協力させられた人物は、その工作員が何者で、何の目
的で来たのか知らされていない。ここが76年以降の違うところだ。
コメント 西岡力常任副会長
76年の前と後との違いについては一つの根拠がある。『金正日と対南工作』
という1996年にソウルで出版された本がそうだ。申ピョンギル(仮名)とい
う3号庁舎の元工作員が書いた。シンは南出身で、朝鮮戦争の時北朝鮮に行った
元労働党工作員だ。その後、ある時期に転向し、韓国の情報機関に協力した。数
年前に死亡しているが、会った人の話では、大変記憶力のいい人だったという。
著書の主要部分は、月刊『現代コリア』に、荒木信子さんが翻訳している。
その本の中で申氏は75年から76年にかけて工作機関の中で何があったのか
をくわしく書いている。申氏は75年から76年当時、平壌に現役の工作員とし
ていたのではないかとのことだ。75年に、惠谷さんの話の通り、金正日が工作
機関のあり方について大検閲をする。申氏の本からその部分を紹介しよう。
75年11月3日に大会議が終わり、そこで金正日が結論を出した。
「金正日は1950年代以来1970年代までの対南工作は、一言で言って零点
だ」と言った。そして、「この結論は、自分の結論ではなく、金日成に報告した
あと金日成が下した結論だ」と述べた。金正日が「一番最初に指摘したのは、幹
部事業、すなわち人事問題が間違っていたということだ。工作員の選抜、教育、
訓練が間違いを犯していた」。「対南工作員は革命家であって、革命家的素養の
ない人間を革命工作に動員して工作がうまくいくだろうか。政治素養のある人間
でも、まともな教育、訓練、指導を受けなければならない」と言った。つまり、
工作員の教育もだめだし、選抜もダメだと第一に指摘した。
そこには過去を分析して過去から学ぶという側面と、過去に指導した金正日の
系列ではない幹部たちを追い出し工作機関を自分が掌握するという二つの側面が
ある。今ここで議論しているユニバース・トレーディングの問題は、合法活動と
非合法活動があいまいになっていて、今、具体的なことが明らかになってきてい
る。朝鮮総連の副議長が関与するような非合法活動もやっていたということは、
人事上の問題があったといわれても仕方がない工作活動であった、ということに
なるだろう。
惠谷さんが言ったようにそこで金正日は、当時の数千人に及ぶ工作員を再整理
した。そして、3つの分類に分けた。金正日は、「革命の指導核心が必要とし、
指導核心をきちんと育てなくてはいけない」と言っている。そして、「指導核心
の基準を満たす人間は新しい基準で再訓練した」。この中に辛光洙も入るし、蓮
池さんを拉致した朴某こと崔スンチョル、曽我さんを拉致した女性工作員金ミョ
ンスクも入る。この第1分類の人間も再教育をした。75年に検閲があり、76
年初めに新方針が出るが、それから数千人の工作員の再教育が行われた。辛光洙
など日本にいた工作員も一度帰っている。辛光洙は77年に日本に再潜入しめぐ
みさん拉致を行い、78年に地村さんらを拉致した。朴某こと崔スンチョルも7
8年に戻って蓮池さんらを拉致したし、金ミョンスクは78年の曽我さん拉致以
前の足取りが分かっていないが、多分辛光洙らと同じく76年に再教育を受けた
後、78年8月佐渡に潜入して曽我さん親子を拉致した。
第2分類は、「指導核心の基準には満たないものの、有事の際には起用できる
人物で」、「有事の場合に即時召還できるように各機関の顧問にする」とある。
従って、工作機関の中に置くが現役でなく顧問とした。第3分類の「全く基準に
満たない者は一般の職場に放出した」ということだ。
申氏によると、金正日は工作機関の大規模検閲を行ってその結論として75年
11月にこれまでの工作活動の成果はゼロと評価し、76年初めに新しい方針を
示した。「金正日は工作員の育成体系も変えなければならないと主張した。即ち
工作員が政治思想、実務能力を保有できるように教育しなければならず、南朝鮮
など資本主義社会に適応できるように技術、生活習慣、言語、風俗などを教えな
ければならない」。「金正日は、工作員が、『現地化、敵区化』できるように教
育体系を変えなければならないと釘をさした」。「金正日は、指導核心を持って
なぜ革命ができるのだろうか。現在の教訓だけでなく、過去の歴史的なことでも
そのことが教えられる」、「すべての工作員を変えろと言った」とそのとき金正
日が示した新方針を申氏は記している。
工作員の指導核心を育てる教育については、「金正日は指導核心が工作戦術に
おいてすべての側面で、合法的でなければならないと主張した。合法的な身分と
職業をもたなければならない」と主張した。「法律的に合法的な身分を得るには
時間がかかるが、南朝鮮に浸透してすぐに社会的な身分を得なければならず生活
習慣上完全に同化されていなければならない」、「そのためには彼らに対する教
育で、多様な職業技術を教えなければならず、南朝鮮化、現地化のために努力し
なければならないと強調した。南の歌も歌い、南の喫茶店や食堂や料亭にも自由
に出入りでき、旅館・ホテルを利用しても全くおかしなことがないだけでなく、
商売をしても大丈夫なように現地適応教育をしなければならないと主張した」、
「そのためこのような教育は短期間ではできないので、1、2年以上の長期教育
を実施しなければならない」、「金正日は第三国迂回工作においては、工作員が
外国人の身分で合法化されなければならない。日本に行けば日本人として、中国
に行けば中国人として、カンボジアに行けばカンボジア人にならなければならな
い。言語・習慣・職業問題を合法的に解決できなければならないと強調した。金
正日は現地人として同化できれば、工作はいくらでも自由にできると付け加えた」、
「大韓航空機爆破事件の主犯である金賢姫が日本語を自由に話すことができたの
も、この教育の成果だ」と書いてある。申氏は、幹部として会議には出て金正日
の新方針を直接聞いたか、その後工作員の第1分類に選ばれて受けた中で金正日
の新方針をくわしく学んだかどちらかだと思われる。だから具体的に金正日の方
針を本に書くことができたのだ。安明進氏が金正日政治軍事大学の必修科目「主
体哲学」で学習したのがまさにこれだったという。
申氏の本にはさらにこのようなことも書いてある。
「対南工作の目標は2つある。南朝鮮革命と南北統一だ。しかし戦術的には、南
朝鮮革命と南北統一を分けなければならない。それを混同していたために今まで
の混乱が起こった。南朝鮮革命は、南の人間が主体となって南に地下党を作り、
統一戦線を作らせなければならない。南北統一は全朝鮮でやるもので、これを混
同したのがこれまでの間違いであった」とある。
安明進氏は、98年に『北朝鮮拉致工作員』という本を出したが、この中に書
かれていないことがある。彼は後で、「怖くて書けなかった」と言っていたが、
それは「拉致は金正日が指令した」ということだった。当初の原稿にはあったの
だが、当局に「身の安全のために書くな」と言われ落としたということだった。
金正日の義理の甥の李韓永が手記を出版したため、韓国に亡命中の97年に、北
朝鮮から送り込まれた工作員に殺害されたという事件もあった。安明進は、金正
日政治軍事大学の「南朝鮮革命史」、「主体哲学」などの科目で、金正日が後継
者に指名された直後の70年代半ばに工作機関の過去の活動を総点検して成果は
ゼロだと断定し、新たな方針を打ち立て、工作員の教育も変えたこと、工作員の
現地化を徹底的に行え、そのために現地人の教師を連れてこいと命令し、拉致が
大々的に行われたことを金正日指令による成功事例として学んだと述べている。
この二つの証言がここで一致した。
76年初めに指令が出て、現地から工作員が呼び戻され、指導核心に分類され
た工作員の再教育が行われて金正日の新方針を学ばされ、彼らが再派遣され77
年、78年に世界各地で拉致が行われたのである。日本政府認定の17人のうち、
16人は77年、78年、80年の拉致である。また、金正日は工作員の待遇を
よくした。再教育で工作員として残された辛光洙らは辞めさせられないように、
争うように拉致を行ったのだろう。鹿児島における市川さん・増元さんの拉致と、
佐渡における曽我さん母子の拉致が同じ日に拉致されたのをみてもそれが分かる。
コメント(島田洋一副会長)
射殺されたとされる寺越昭二さんの事件、高兄弟の拉致においてその母渡辺秀
子さんが殺害されたとされる事件、安明進さんの証言で、北朝鮮工作員が拉致す
るに当たりみぞおちを強打して殺害してしまった事件があることなど、変死者問
題の洗い直しをすべきである。
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●安倍首相にメール・葉書を
首相官邸のホームページに「ご意見募集」があります。
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葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安倍晋三殿
●救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
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担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
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カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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