日本人拉致に関する元朝鮮労働党連絡部幹部工作員金東赫の証言(2008/05/01)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2008.05.01)
救う会「拉致の全貌研究プロジェクト」は、2008年4月3日、ソウルで元
朝鮮労働党連絡部幹部工作員金東赫(ドンヒョク)氏と面談した。
金氏は日本人拉致に関して、
「76年夏、一人の日本人拉致被害者を目撃した」
「76年金正日指令以降、日本人拉致について、多くの話を伝聞した」
「76年金正日が工作員教官にするために拉致を行えと指令した、と招待所で学
んだ」
「76年以前も拉致はあった。69年には金日成が万景峰号を使った拉致を行え
と教示した」
「日本人拉致被害者総数は80人から90人」
などとする新証言をした。
その骨子は、4月27日の国民大集会で西岡副会長が報告したが、ここに、証
言記録を公開する。なお、金氏は「金日成の秘密教示―対日・対南工作、衝撃の
新事実 」(久保田るり子 ・編集) という単行本を2004年12月に出版して
いる。
■日本人拉致に関する元朝鮮労働党連絡部幹部工作員金東赫の証言
1.1976年の夏、日本人拉致被害者を目撃した。
76年夏、平壌の曲芸(サーカス)劇場で、サーカスを鑑賞したときに日本人
拉致被害者、30から40歳の男性一人を目撃した。
サーカス劇場の観客数は2000人ほどだった。1回に4、5組の工作組が一
緒に鑑賞した。
A組は1階の真ん中、B組は2階の左端、C組は1階の左前方の席などに配置されていた。
そのときは自分ともう一人の工作員に指導員が一人ついて3人で鑑賞したが、
指導員が前もって「今回はたくさんの組が見に来る。そのなかには日本からのチ
ング(友人)もいるし、現地(南)からの組もいるので、顔が露出しないように
注意しろ」と注意をした。
我われが先に着いて見ていると、連絡部のボルガやニッサンの車が到着した。
車を見れば、工作員だということは分かる。日本人はニッサンに乗っていた。
(当時の北朝鮮では)ニッサンの次にトヨタが多かった。大臣や副大臣がボルガ
やトヨタに乗っていたが、ニッサンには乗れなかった。
トイレに行くとき日本人と南の男を見た。新米工作員はバレないと思って(顔
を隠さずに)トイレに行く。自分は分からないように顔を隠すが、彼らはそうで
はなかったのですぐ分かった。日本人は30歳から40歳だった。南の男も30
歳から40歳だった。工作員は服もいいので判別できる。日本人は服装、髪型、
顔などで区別できる。日本人に直接会ったのはそのとき1回だけ。
2.工作機関が持つ招待所の関係者から日本人拉致被害者に関する話を何回も聞
いた。
76年以降、日本人拉致被害者に関する伝聞が多くなった。
招待所の医者と運転手、家政婦、物資供給者などから拉致日本人の話を聞いた。
自分は「幹部工作員」だったから、安心していろいろなことを話す。
中和招待所にいたとき、小さな丘の向こうに招待所があった。そこの新来者は
(日本人の)漁民のようだという話を聞いた。
順安招待所にいたとき、他の単位に日本人の男がいると聞いた。
3.1976年はじめ、金正日が「工作員の現地化のため現地人教官を連れてこ
い」という拉致指令を出したことを、同年に招待所で学習した。
【西岡副会長解説】
金正日の拉致指令については、安明進が1998年に証言し、その後複数の元
工作員がやはりその存在を証言していた。この指令の後、特に77年と78年に
世界各地で拉致が多発したことは、よく知られている。
日本政府認定拉致17人の内、13人が77から78年に拉致されている。そ
れ以外、韓国人、マカオ人、タイ人、ルーマニア人、レバノン人、シンガポール
人、マレーシア人が78年に拉致され、フランス人、オランダ人、イタリア人、
ヨルダン人の拉致も78年前後に起きていることが確認されている。
4.1976年以前にも拉致はあった。
1969年11月、金日成が3号庁舎(労働党工作機関)拡大幹部会議で在日
朝鮮人帰国事業と万景峰号を利用した対日工作に関して次のような教示を下した。
「南朝鮮(韓国)に故郷のある在日同胞が、われわれ共和国の胸に帰国しようと
いうその態度だけでも政治的に大きな成果である。
しかしわれわれはこの事業を長く続けなければならない。そうしてこそわれわ
れは万景峰号で新潟港と往復できるのだ。
万景峰号は帰国同胞の事業だけでなく南朝鮮革命と祖国統一を推進する事業を
展開しなければならない。
だから新潟に停泊している間に同志たちは革命に有益なことを探して行うべき
だ。
例えば、南朝鮮革命に必要な情報の入手や、必要なら日本人を包摂工作し拉致
工作もすることもできるのだ。
革命家はいつでもどこでも時と場所にかかわらず革命に役に立つことのできる
気質が必要だ。
そうしてこそ南朝鮮革命の決定的時期を主導的に早めることができる」。
当時は、(日本人の)教官は不要だった。しかし、日本人拉致は革命に有益な
ものなのだから、教示以降はそれをしなくてはならなくなったと、ときどき聞い
た。
日本人拉致は関心外だったので、いつどこで聞いたのかは詳しく覚えていない。
1970年代半ばに、九州から女子学生を運んだ(拉致した)と聞いたが、そ
れには朝鮮総連が関与していると聞いた。
5.日本人拉致被害者は80人から90人。
韓国に来て見た韓国公安関係の資料では(日本人拉致被害者は)60人から
70人となっていた。その資料は日本の公安関係の資料なども引用していた。8
0人から90人というのは、その資料をチェックして、自分の経験からそこに取
り上げられていないケースを加え推定した数字である。
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●福田首相にメール・葉書を
首相官邸のホームページに「ご意見募集」があります。
下記をクリックして、ご意見を送ってください。
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 福田康夫殿
●救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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救う会「拉致の全貌研究プロジェクト」は、2008年4月3日、ソウルで元
朝鮮労働党連絡部幹部工作員金東赫(ドンヒョク)氏と面談した。
金氏は日本人拉致に関して、
「76年夏、一人の日本人拉致被害者を目撃した」
「76年金正日指令以降、日本人拉致について、多くの話を伝聞した」
「76年金正日が工作員教官にするために拉致を行えと指令した、と招待所で学
んだ」
「76年以前も拉致はあった。69年には金日成が万景峰号を使った拉致を行え
と教示した」
「日本人拉致被害者総数は80人から90人」
などとする新証言をした。
その骨子は、4月27日の国民大集会で西岡副会長が報告したが、ここに、証
言記録を公開する。なお、金氏は「金日成の秘密教示―対日・対南工作、衝撃の
新事実 」(久保田るり子 ・編集) という単行本を2004年12月に出版して
いる。
■日本人拉致に関する元朝鮮労働党連絡部幹部工作員金東赫の証言
1.1976年の夏、日本人拉致被害者を目撃した。
76年夏、平壌の曲芸(サーカス)劇場で、サーカスを鑑賞したときに日本人
拉致被害者、30から40歳の男性一人を目撃した。
サーカス劇場の観客数は2000人ほどだった。1回に4、5組の工作組が一
緒に鑑賞した。
A組は1階の真ん中、B組は2階の左端、C組は1階の左前方の席などに配置されていた。
そのときは自分ともう一人の工作員に指導員が一人ついて3人で鑑賞したが、
指導員が前もって「今回はたくさんの組が見に来る。そのなかには日本からのチ
ング(友人)もいるし、現地(南)からの組もいるので、顔が露出しないように
注意しろ」と注意をした。
我われが先に着いて見ていると、連絡部のボルガやニッサンの車が到着した。
車を見れば、工作員だということは分かる。日本人はニッサンに乗っていた。
(当時の北朝鮮では)ニッサンの次にトヨタが多かった。大臣や副大臣がボルガ
やトヨタに乗っていたが、ニッサンには乗れなかった。
トイレに行くとき日本人と南の男を見た。新米工作員はバレないと思って(顔
を隠さずに)トイレに行く。自分は分からないように顔を隠すが、彼らはそうで
はなかったのですぐ分かった。日本人は30歳から40歳だった。南の男も30
歳から40歳だった。工作員は服もいいので判別できる。日本人は服装、髪型、
顔などで区別できる。日本人に直接会ったのはそのとき1回だけ。
2.工作機関が持つ招待所の関係者から日本人拉致被害者に関する話を何回も聞
いた。
76年以降、日本人拉致被害者に関する伝聞が多くなった。
招待所の医者と運転手、家政婦、物資供給者などから拉致日本人の話を聞いた。
自分は「幹部工作員」だったから、安心していろいろなことを話す。
中和招待所にいたとき、小さな丘の向こうに招待所があった。そこの新来者は
(日本人の)漁民のようだという話を聞いた。
順安招待所にいたとき、他の単位に日本人の男がいると聞いた。
3.1976年はじめ、金正日が「工作員の現地化のため現地人教官を連れてこ
い」という拉致指令を出したことを、同年に招待所で学習した。
【西岡副会長解説】
金正日の拉致指令については、安明進が1998年に証言し、その後複数の元
工作員がやはりその存在を証言していた。この指令の後、特に77年と78年に
世界各地で拉致が多発したことは、よく知られている。
日本政府認定拉致17人の内、13人が77から78年に拉致されている。そ
れ以外、韓国人、マカオ人、タイ人、ルーマニア人、レバノン人、シンガポール
人、マレーシア人が78年に拉致され、フランス人、オランダ人、イタリア人、
ヨルダン人の拉致も78年前後に起きていることが確認されている。
4.1976年以前にも拉致はあった。
1969年11月、金日成が3号庁舎(労働党工作機関)拡大幹部会議で在日
朝鮮人帰国事業と万景峰号を利用した対日工作に関して次のような教示を下した。
「南朝鮮(韓国)に故郷のある在日同胞が、われわれ共和国の胸に帰国しようと
いうその態度だけでも政治的に大きな成果である。
しかしわれわれはこの事業を長く続けなければならない。そうしてこそわれわ
れは万景峰号で新潟港と往復できるのだ。
万景峰号は帰国同胞の事業だけでなく南朝鮮革命と祖国統一を推進する事業を
展開しなければならない。
だから新潟に停泊している間に同志たちは革命に有益なことを探して行うべき
だ。
例えば、南朝鮮革命に必要な情報の入手や、必要なら日本人を包摂工作し拉致
工作もすることもできるのだ。
革命家はいつでもどこでも時と場所にかかわらず革命に役に立つことのできる
気質が必要だ。
そうしてこそ南朝鮮革命の決定的時期を主導的に早めることができる」。
当時は、(日本人の)教官は不要だった。しかし、日本人拉致は革命に有益な
ものなのだから、教示以降はそれをしなくてはならなくなったと、ときどき聞い
た。
日本人拉致は関心外だったので、いつどこで聞いたのかは詳しく覚えていない。
1970年代半ばに、九州から女子学生を運んだ(拉致した)と聞いたが、そ
れには朝鮮総連が関与していると聞いた。
5.日本人拉致被害者は80人から90人。
韓国に来て見た韓国公安関係の資料では(日本人拉致被害者は)60人から
70人となっていた。その資料は日本の公安関係の資料なども引用していた。8
0人から90人というのは、その資料をチェックして、自分の経験からそこに取
り上げられていないケースを加え推定した数字である。
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●福田首相にメール・葉書を
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