金賢姫氏インタビュー詳報(2009/01/18)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2009.1.18-2)
救う会は先ほど「月刊朝鮮」2月号を入手した。同誌に趙甲済(月刊朝鮮編集委員兼
趙甲済ドットコム代表)が寄稿した「特ダネインタビュー 20年ぶりに口を開いた金賢
姫」から、日本人拉致に拉致に関する部分を翻訳してお伝えする。
これを読むと、先の本ニュースで指摘した3つの重要ポイント、
1“横田メグミが友人キム・スクヒを教えた。”
2“イ・ウンヘが死んだという話は信じることができない。”
3“北朝鮮で工作員を教えた日本人は十人を越えるだろう”
のうち、1については、当時は横田めぐみという名前は分からなかったが、
・幼いとき日本から拉致されてきて、
・拉致されてきた韓国男性と結婚し、
・娘を産んだ
という3点が、完全に一致するので横田めぐみさんに間違いないと言えるだろう。
2については、金賢姫氏が伝える田口さんの最後の消息は1985年のものであり、北朝鮮
が死亡日としている1986年より早い時期である。金賢姫氏が田口さんの生存を信じて
いる根拠は、工作員としての常識からであることが分かる。
3については、金賢姫氏は田口さん以外の日本人を目撃していない。10人以上という数
字は、招待所で生活した際などに聞いたことなどを総合した彼女の判断なのだろう。
記事の中で趙甲済氏が「彼女に会ったら『これを必ずきいてくれ』と頼んだ日本人
たちがいる。拉致被害者救出のために活動している人たちだ。」と書いているが、救
う会西岡力会長代行は昨年12月、ソウルで趙甲済氏に会い、日本人拉致に関して金賢
姫に質問して欲しいことを伝えている。このインタビューでは、そのとき依頼した質
問がほぼ実現しており、趙甲済氏に感謝したい。
以下、月刊朝鮮2月号、趙甲済氏の記事から日本人拉致関連部分を訳出した。(翻訳
西岡力)
(略)彼女に会ったら「これを必ずきいてくれ」と頼んだ日本人たちがいる。拉致被害
者救出のために活動している人たちだ。
ー北朝鮮で工作員教育を受けたとき、横田めぐみに会ったことがありますか。
「わたしはないが、スクヒがめぐみから日本語を学んだといいます。もちろんそのと
きはキム・スクヒ(金淑姫)に日本語を教えてくれた女性の名前がめぐみだとは分かり
ませんでした。幼いとき日本から拉致されてきて、性格がおとなしく、拉致されてき
た韓国男性と結婚し、娘を産んだという話を聞きました。」
(「 」内は金賢姫発言、以下同・訳註)
ー見たことはありませんか。
「ないです。けれども、ポラロイド写真でキム・スクヒとめぐみがいっしょに撮った
ものをみたことがあります。」
ー写真を撮ってもいいのですか。
「指導員かだれかが撮ってくれたもののようでした。その中ではお互いによく知って
いるからそのようにします。」
(略)金賢姫はめぐみが『おとなしく憂鬱でよく病気になり入院した』という話を聞い
たという。
「指導員がこのように話していました。『おとなしいスクヒがおとなしい日本人の子
と生活したのでもっとおとなしくなった。工作員は活発でなくてはならないのに、ス
クヒを李恩恵と合わせるのであった、失敗した』と話しました」
(略)1991年春、日本の警察官がまた安企部に勤務していた金賢姫を訪ねてきた。
「そのときがたぶん7回目の訪問ではないかと思います。いろいろな写真を持ってきて
ひとつづつ出したのですが、さいごの写真が李恩恵でした。太った顔でした。最近、
青年になった田口の息子の写真をテレビで見ましたが、目がお母さんと似ていますね。
息子にきっと会いたいです」
(略)
ー李恩恵が死んだと思いますか。
「信じられません。あそこは交通事故が起きることがありません。李恩恵はあそこで
結婚したという話を聞いたことありません。送り返せば私と関係すること、そして工
作員教育状況などが知られてしまうから離さないのでしょう。北朝鮮が日本に送り返
した者たちは工作員部署で勤務した人たちではないじゃないですか」
金賢姫が李恩恵について最後に消息を聞いたのは、1985年夏、広州に実習に出発す
る前だったという。その要旨は「李恩恵が遠く離れた場所で寂しく暮らしているのに、
運転手たちが訪ねていって乱暴し、問責された」というものだった。(略)
ー李恩恵が拉致されたときの状況を話しましたか。
「話しました。拉致された後、船に乗ったが船酔いがひどく食べることができず、は
いていたズボンがゆるゆるになったと言っていました。私たちが招待所で生活したと
きは、第1原則が尋ねても、知っても、見ても、話してもならないということだ。李恩
恵が話すことだけを聞いておいたのであって、尋ねることはできませんでした。李恩
恵は自分についてたくさん話す方でした。李恩恵が私について知っていることは本当
に少ないでしょう。」
ー金賢姫氏は1982年2月、李恩恵といっしょに暮らしながら日本人化教育を受けている
とき、李恩恵が酔った中でこのような話しをしたと言いましたよね。『金正日同志の
誕生日(2月16日)の晩餐に特別に招待されていった。私のように拉致されてきたような
日本人夫婦に会った。この事実は絶対に秘密だ』
「そうです。招待所で聞いた話ではそのような夫婦が二組いるらしかったが…。」
ーもしかして北朝鮮で李恩恵以外の日本人に会ったことがありますか。
「ないです」
ーそのとき北朝鮮工作部署では日本人を多数捕まえてきて工作員を教育するのに利用
したが、招待所や軍事大学など、そのような場所で働いている日本人は何人くらいに
なりますか。
「十人は超えているでしょう」
「私も子どもを育ててみたので、幼いとき拉致されてきためぐみの運命がよりかわい
そうに感じられる」
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葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 麻生太郎殿
●救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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救う会は先ほど「月刊朝鮮」2月号を入手した。同誌に趙甲済(月刊朝鮮編集委員兼
趙甲済ドットコム代表)が寄稿した「特ダネインタビュー 20年ぶりに口を開いた金賢
姫」から、日本人拉致に拉致に関する部分を翻訳してお伝えする。
これを読むと、先の本ニュースで指摘した3つの重要ポイント、
1“横田メグミが友人キム・スクヒを教えた。”
2“イ・ウンヘが死んだという話は信じることができない。”
3“北朝鮮で工作員を教えた日本人は十人を越えるだろう”
のうち、1については、当時は横田めぐみという名前は分からなかったが、
・幼いとき日本から拉致されてきて、
・拉致されてきた韓国男性と結婚し、
・娘を産んだ
という3点が、完全に一致するので横田めぐみさんに間違いないと言えるだろう。
2については、金賢姫氏が伝える田口さんの最後の消息は1985年のものであり、北朝鮮
が死亡日としている1986年より早い時期である。金賢姫氏が田口さんの生存を信じて
いる根拠は、工作員としての常識からであることが分かる。
3については、金賢姫氏は田口さん以外の日本人を目撃していない。10人以上という数
字は、招待所で生活した際などに聞いたことなどを総合した彼女の判断なのだろう。
記事の中で趙甲済氏が「彼女に会ったら『これを必ずきいてくれ』と頼んだ日本人
たちがいる。拉致被害者救出のために活動している人たちだ。」と書いているが、救
う会西岡力会長代行は昨年12月、ソウルで趙甲済氏に会い、日本人拉致に関して金賢
姫に質問して欲しいことを伝えている。このインタビューでは、そのとき依頼した質
問がほぼ実現しており、趙甲済氏に感謝したい。
以下、月刊朝鮮2月号、趙甲済氏の記事から日本人拉致関連部分を訳出した。(翻訳
西岡力)
(略)彼女に会ったら「これを必ずきいてくれ」と頼んだ日本人たちがいる。拉致被害
者救出のために活動している人たちだ。
ー北朝鮮で工作員教育を受けたとき、横田めぐみに会ったことがありますか。
「わたしはないが、スクヒがめぐみから日本語を学んだといいます。もちろんそのと
きはキム・スクヒ(金淑姫)に日本語を教えてくれた女性の名前がめぐみだとは分かり
ませんでした。幼いとき日本から拉致されてきて、性格がおとなしく、拉致されてき
た韓国男性と結婚し、娘を産んだという話を聞きました。」
(「 」内は金賢姫発言、以下同・訳註)
ー見たことはありませんか。
「ないです。けれども、ポラロイド写真でキム・スクヒとめぐみがいっしょに撮った
ものをみたことがあります。」
ー写真を撮ってもいいのですか。
「指導員かだれかが撮ってくれたもののようでした。その中ではお互いによく知って
いるからそのようにします。」
(略)金賢姫はめぐみが『おとなしく憂鬱でよく病気になり入院した』という話を聞い
たという。
「指導員がこのように話していました。『おとなしいスクヒがおとなしい日本人の子
と生活したのでもっとおとなしくなった。工作員は活発でなくてはならないのに、ス
クヒを李恩恵と合わせるのであった、失敗した』と話しました」
(略)1991年春、日本の警察官がまた安企部に勤務していた金賢姫を訪ねてきた。
「そのときがたぶん7回目の訪問ではないかと思います。いろいろな写真を持ってきて
ひとつづつ出したのですが、さいごの写真が李恩恵でした。太った顔でした。最近、
青年になった田口の息子の写真をテレビで見ましたが、目がお母さんと似ていますね。
息子にきっと会いたいです」
(略)
ー李恩恵が死んだと思いますか。
「信じられません。あそこは交通事故が起きることがありません。李恩恵はあそこで
結婚したという話を聞いたことありません。送り返せば私と関係すること、そして工
作員教育状況などが知られてしまうから離さないのでしょう。北朝鮮が日本に送り返
した者たちは工作員部署で勤務した人たちではないじゃないですか」
金賢姫が李恩恵について最後に消息を聞いたのは、1985年夏、広州に実習に出発す
る前だったという。その要旨は「李恩恵が遠く離れた場所で寂しく暮らしているのに、
運転手たちが訪ねていって乱暴し、問責された」というものだった。(略)
ー李恩恵が拉致されたときの状況を話しましたか。
「話しました。拉致された後、船に乗ったが船酔いがひどく食べることができず、は
いていたズボンがゆるゆるになったと言っていました。私たちが招待所で生活したと
きは、第1原則が尋ねても、知っても、見ても、話してもならないということだ。李恩
恵が話すことだけを聞いておいたのであって、尋ねることはできませんでした。李恩
恵は自分についてたくさん話す方でした。李恩恵が私について知っていることは本当
に少ないでしょう。」
ー金賢姫氏は1982年2月、李恩恵といっしょに暮らしながら日本人化教育を受けている
とき、李恩恵が酔った中でこのような話しをしたと言いましたよね。『金正日同志の
誕生日(2月16日)の晩餐に特別に招待されていった。私のように拉致されてきたような
日本人夫婦に会った。この事実は絶対に秘密だ』
「そうです。招待所で聞いた話ではそのような夫婦が二組いるらしかったが…。」
ーもしかして北朝鮮で李恩恵以外の日本人に会ったことがありますか。
「ないです」
ーそのとき北朝鮮工作部署では日本人を多数捕まえてきて工作員を教育するのに利用
したが、招待所や軍事大学など、そのような場所で働いている日本人は何人くらいに
なりますか。
「十人は超えているでしょう」
「私も子どもを育ててみたので、幼いとき拉致されてきためぐみの運命がよりかわい
そうに感じられる」
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●麻生首相にメール・葉書を
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葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 麻生太郎殿
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発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
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