増元さん、市川さん新情報?増元るみ子さんを救うぞ!東京連続集会1(2012/08/20)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2012.08.20)
■増元さん、市川さん新情報?増元るみ子さんを救うぞ!東京連続集会1
平成24年8月9日、第68回東京連続集会が開催された。
この東京連続集会は、当初、各被害者の思い出を語るシリーズとして開始しま
したが、改めて、拉致の状況、北朝鮮での生活、生存情報などについて、一人ひ
とりの被害者について考える集会を行うこととし、その第1回として、1978
(昭和53)年8月12日に、市川修一さんとともに拉致されて8月12日で3
4年となる増元るみ子さんの拉致に焦点を当てる集会を開催したものです。
るみ子さんの弟増元照明さん、ジャーナリストの惠谷治さん、西岡力救う会会
長が報告。
また、8月10日のメールニュースで報告しましたが、蓮池祐木子さんから増
元照明さんへの手紙は、照明さんから、お母さんがまだ元気なうちに、増元るみ
子さんと北朝鮮で約1年一緒に暮らした蓮池祐木子さんに、どのような暮らしだっ
たかを教えてほしいということ、また東京連続集会で皆様にも伝えたいというこ
とで手紙でお願いしたところ、蓮池祐木子さんが7月29日付けで返事をくれた
もので、この証言についても報告がなされました。
概要以下の通り。
■増元さん、市川さん新情報?増元るみ子さんを救うぞ!東京連続集会
◆1週間、延べ2000人くらいの大捜索
西岡 暑い中ご苦労様です。今日は、3部構成で話したいと思っています。まず、
34年前の8月12日に一体何が起きていたのかについて検証したいと思います。
次に、拉致されて以降、北朝鮮まで何日かかりますか。
惠谷 最低2日かかります。
西岡 では8月14日以降、向こうでるみ子さんはどんな目にあわされていたの
かについて、今まで語られたことがなかった蓮池(旧姓奥土)祐木子さんの証言
をご紹介します。そして祐木子さんと約1年間暮らした後、どういう生活をして
いたについて、救う会が入手していた情報をご紹介します。
まず、34年前の8月12日ですが、その時るみ子さんは何歳だったのですか。
増元 昭和28年生まれで24歳でした。
西岡 増元さんはその時、鹿児島に帰っていたんですか。
増元 ちょうど夏休みで帰っていました。北海道は早く始まりますから、お盆を
過ぎたら(北海道)大学に帰ろうと思っていました。
西岡 最後にるみ子さんに会ったのは。
増元 8月11日の夜、みんなで食事をし、その時、市川修一さんという人の存
在を知りました。翌日は土曜日で、姉は朝から会社に行きました。
西岡 その頃まだ土曜日は休みではなく、半ドンだったのですね。
増元 それで昼にいったん帰ってきました。私は確か昼くらいに起きたのです。
それで、姉が帰ってくるのを見て、着替えてまた出て行くのを見たのが最後です。
西岡 その時が市川修一さんとの初めてのデートで。
増元 改まったデートはなかったと思いますが、2、3回どこかで会っていたよ
うです。
西岡 ドライブして遠出するデートは初めて。
増元 そうですね。
西岡 夕陽がきれいな吹上浜に行くことは聞いていましたか。
増元 前の晩にそんなことを言っていました。
西岡 そして帰ってこなかった。いつおかしいなと思ったのですか。
増元 私は友人と天文館という繁華街に飲みにいって、帰ってきたのが10時か
11時くらいでした。家に帰ったらるみ子が帰ってきていない。この時、これは
事故か、何かがあったのだろうなという思いはありました。
西岡 それで次の日から現場に行って探したわけですね。
増元 記憶はあいまいですが、「もう一日待ってみよう」という市川家からの要
請があったと思います。私は運転免許を持っていなくて、吹上浜というのは車で
行かないと遠いんです。車で1時間半くらい。歩いて行くわけにはいきませんし、
行き方も分からなかった。
西岡 その後、警察に届け、警察も事件の可能性があると、大捜索をしたんです
ね。
増元 1週間、延べ2000人くらいの大捜索だった。(市川さんの)車が置い
てあった場所の周辺を捜索しました。
西岡 その時、北朝鮮の可能性については警察からは何も聞いていませんか。
増元 何もなかったですね。家に聞き込みに来た警察の方は駆け落ちも視野に入
れていたようでしたが、私は絶対に駆け落ちはないと言っていました。ありえな
いと。結婚の話はまだ何も出ていなくて。
西岡 反対されているわけでもなかった。
増元 そうです。
◆警察の一部は、北朝鮮の船が来ていたことを知っていた
西岡 ところが警察の一部は、その事件の日の前後約1週間にわたって、北朝鮮
の船が来ていたことを知っていたという事実が、平成14(2002)年の10
月19日の「南日本新聞」に出ていますね。これは5人が帰ってきた後の新聞で
す。
増元 当時警察は新聞に発表なんかしませんからね。
西岡 電波を聞いていたということ自体が秘密だったのですよね。
惠谷 そうです。新聞にも(地図が)載っていますが、怪電波発信源は母船が遊
弋していた所です。当局は秘匿していました。
西岡 これは5人が帰ってきた直後の「南日本新聞」の記事ですが、同じ年の1
2月には「読売新聞」が、電波傍受をしていたところを管轄していた警察の幹部
が、「北朝鮮の犯行だとその時に確信した」と言っています。その根拠も電波で
した。しかし、家族は拉致だとは全く分からず、神隠しとかUFOとか言われたの
ですか。
増元 そう思うしかなかったのです。警察からは、「事件性はありません。全く
分かりません。何の情報もありません」としか言われていませんでしたから。で
は何なんだとなって、もう神隠かUFOの可能性しかなくなったんです。
◆何も情報がないよりは、拉致であってほしい
西岡 「産経新聞」の阿部記者が、1979年に取材に来たんですね。そして8
0年1月に、「外国の工作機関」と書いて、北朝鮮とほぼ思われる記事が出まし
た。その時どう思いましたか。
増元 他に何もなかったので、そうあってほしいという気持ちがありました。父
も母も直接は聞いていませんでしたが、私が直接聞いて父や母に話したんですが、
父は、「もしそうだとしたら、むやみに殺すことはない」、「必ずまた会うこと
ができるだろう」と言っていました。でも半信半疑なんです。北朝鮮という国も
あまり理解していなかったし、姉が反戦運動や反北朝鮮運動をやっていたことは
ありえないので、なぜ北朝鮮が、という思いですね。それと、北に拉致されてい
るのであれば生きているという思い、少し光が見えたという感じでした。
西岡 当初から拉致ということを、少なくとも警察の一部の人は分かっていなが
ら手が打たれず、新聞報道もありながら何も起きないで、横田めぐみさんの拉致
が明らかになるまで20年間、何もしないできてしまったということですよね。
その辺のことについては何回も議論してきましたが、ここで惠谷さんに聞きた
いのは、同じ日に曽我さんがやられていますね。8月12日というのは、別々に
2隻の工作船が来て拉致をしたということで、かなり特別ですね。その背景をど
う見ますか。
◆清津連絡所と南浦連絡所が拉致、時に元山連絡所も
惠谷 北朝鮮には拉致工作をやる出撃基地が4か所あります。吹上浜の場合、黄
海側の南浦連絡所が、佐渡は日本海側の清津連絡所がやった。同時に4つのチー
ムが活躍できます。
西岡 しかし、日本担当は、その4つの全部ではないですよね。
惠谷 日本海側は北に清津、南に元山連絡所があり、黄海側、西側には南浦と海
州連絡所があります。清津は基本的に日本の日本海側の担当で、一部元山が担当
しますが、時代により変化があります。元山は基本的に韓国の東海岸が担当です。
海州が韓国の西海岸担当で、南浦は韓国の南海岸が担当で、同時に日本の九州そ
の他を担当しています。
西岡 そうすると南浦から南シナ海に来て吹上浜に、清津から日本海に来て佐渡
に、そして同じ日に拉致をしたと見るわけですね。
惠谷 どの連絡所にも「方向」というのがあり、日本的に言えば方面でしょうが、
それぞれ4つずつのチームがあります。清津連絡所の1つが佐渡に来て、南浦の
1つが吹き上げ浜に来たわけです。
工作船にも能力が必要ですが、同時に佐渡や吹上浜側にも、その拉致作戦をコ
ントロールする指導員がいます。当時の朝鮮労働党調査部に所属する工作員が、
おそらく前もって侵入している。そして党作戦部の工作船から工作員が上陸し彼
らに指示を出します。
上陸地点には、最低数人の工作員が待ち構え、うち一人は間違いなく調査部あ
るいは連絡部の工作員がいます。その他、見張りとか車を用意する、運転するな
どの協力者がいます。ですから相当な人数が投入されているということです。
西岡 地村保志・富貴江さんたちが7月7日、蓮池 薫・祐木子さんたちが7月
31日、そして(今日話題にしている)8月12日と冨山の未遂事件が8月15
日ですからひんぱんに来ていたわけです。
これは拉致そのものについてですが、今日は増元るみ子さんのことですので、
今の関連で言えば、北朝鮮はるみ子さんを拉致して海州の連絡所に上陸させたと
言っていますが、それについてどう思いますか。
惠谷 海州の連絡所は韓国の西海岸担当で、日本は管轄区域ではありません。こ
れは非常に厳密に行われ、海州連絡所の工作員が日本に来ることはありえません。
逆に言えば、その工作船が海州に入るということは99.9%ありません。他方、
るみ子さんは、南浦に着いたと証言していますし、南浦連絡所の工作員が拉致し
たことは間違いないと思います。
西岡 田口八重子さんも南浦に上陸したという情報がありますね。これは宮崎の
海岸から連れていかれたのではないかという話です。
◆松林を越えないと海が見えない所で拉致
惠谷 先ほど増元さんが言われましたが、8月12日に夕陽を見にドライブに行
きました。当日、吹上浜ではコンサートがあったので、工作員が紛れ込みやすかっ
たということもあります。コンサートを見たかどうかは分かりません。但し車は
駐車されていて、夕陽を見ようと海岸に行ったことはほぼ間違いないと思います。
西岡 あの海岸は松林があり、下の方に砂浜があって、松林を越えないと海が見
えないですね。
惠谷 そうですね。私も現場に行きましたが、砂浜には誰もいませんでした。
西岡 つまり工作船からゴムボートが来ても、松林に隠れて見えない。上陸しや
すいい場所です。
惠谷 監視をしていない限り見えない、不気味なところです。
西岡 日本では捜索活動が行われていた。しかし、警察の一部は電波を傍受して
北が怪しいと思っていた。東京では北がやったのではないかと思われていたとい
うことですが、その時、実はるみ子さんは、南浦に連れて行かれ、その後77年
8月のことですが、「その年の秋から奥土祐木子さん、後に結婚されて蓮池 祐
木子さんと一緒に暮らしておられたということが明らかになっています。
今日の、るみ子さんの集会に向けて、増元さんに、是非祐木子さんから、一緒
に暮らしていた時のるみ子さんの様子について聞いて、ここで紹介してもらえま
せんかと私がお願いをしました。そこで増元さんが手紙を書いて下さったのです
が、そして返事が来たということです。
まずそのやりとりについて増元さんから紹介してください。
増元 直接蓮池さんの所に行くかどうかですが、なかなか会えないので手紙を出
して、そしてその返事をもらおうという思いで書きました。まず、こういう集会
があること、そして姉が北朝鮮で暮らしていた時のことを教えてください、と。
よく考えると、詳しいことは私の母も知らないんです。よく聞いてないから。
北朝鮮で祐木子さんと一緒だったということは2003年5月に聞きました。
しかし、祐木子さんから、「一緒だった。子どもが生まれたことを聞いた」と
いう話でした。母も84歳になって、足腰が弱くなっています。しかし、意識は
しっかりしているので、今の内に北にいたときの姉の様子を教えてあげたいので、
是非教えてくださいと前段に書きました。
そして質問事項を12書いて、質問と質問の空欄に回答していただけるような
ものにして送りました。もしかしたら返事をくれないかのとの思いもありました
が、2週間か3週間して送られてきました。
大変丁寧に答えていただきました。別に祐木子さんからの手紙も同封されてい
ました。この手紙を紹介したいと思います。
◆蓮池祐木子さんからの手紙
増元様へ。
色々記憶をたどりながら書いたため遅くなりました。
私が北朝鮮にいた時、夜、月を見ると日本に帰れなくても、元気でいることだ
けでも日本にいる家族に知らせることができたらどんなにいいだろうと思ったも
のです。
るみ子さんが元気でいてくれて、一日も早く嬉しい知らせが来ることを待って
います。るみ子さんのお母さんが元気でいらっしゃる内にできることを心から祈っ
ています。
7月29日
この手紙を添えて回答(全文は、メールニュース24.08.10)が来ました。
その回答を、私の声では何ですから、美しい女性の声で、読んでいただきます。
朗読は桜応援団の伊原さん。増元さんが質問を読み、伊原さんが祐木子さんの
返事を読む形で朗読。
西岡 私も読ませていただいて、大変心がこもった手紙だなあと思い、全文紹介
したいと思ったのですが、ご本人に了承をとらなければと思い増元さんから確認
の電話をしていただいたのですが、その時のご返事を。
増元 ご自宅はお留守で、薫さんに連絡しました。「ご返事ありがとうございま
す」と言ったら、「ああ、届きましたか」と言われました。「集会で全文を皆さ
んに聞いていただきたいと思うんですが、どうでしょうか」と聞いたら、「私た
ちがご家族にあてた手紙を、ご家族がどのように使おうと、それは語家族の皆さ
んの自由にしてください。私たちもこちらで皆さんの帰国が早くできるように頑
張りますので頑張ってください」というご返事でしたので、感謝を申し上げて電
話をきりました。
西岡 この手紙の内容について、増元さんが感じられたことや専門家の立場から
惠谷さんとも議論をしていきたいと思います。
西岡 「白い椅子」ってどんなものですか。
増元 姉にも聞いたのですが、「なかっただろう」ということでこの点について
は記憶違いじゃないかと思います。
西岡 まず北朝鮮が言っていることをきちんと確認したいのですが。
◆北朝鮮が結婚年月日を単なる勘違いと訂正
増元 79年10月25日まで一緒にいたということは、北朝鮮が、姉と市川修
一さんが結婚したのは1979年4月と言ってきました。それなら79年4月に
結婚する筈がないと思い、政府に伝え、北朝鮮にもそういう質問をしました。そ
したら、79年7月に結婚したと訂正してきました。
横田めぐみさんが、(北朝鮮が伝えた死亡日の)翌年の3月まで生きていたと
いう質問とともにぶつけたら、めぐみさんの訂正は、単なる勘違いと言ってきま
したが、姉の場合は79年4月ではなく7月と言ってきました。
しかし10月まで祐木子さんと暮らしていたのですから合ってない。今考える
と、西岡さんが出した情報では80年7月に結婚を承認したとなっていますので、
それが念頭にあって7月にしちゃったのではと思いました。
それでも79年ではつじつまが合わないのですが、それだけいい加減というこ
とです。
西岡 北朝鮮の主張については、「市川修一・増元るみ子さん情報」にあります
が、「1979年7月に結婚」したと今、北朝鮮は言っています。しかし、先ほ
ど増元さんが言ったように、最初は「79年4月」と言いました。
つまり、79年9月に市川さんが死亡したと言っているので、その前に結婚さ
せなければいけない。79年10月まで蓮池祐木子さんが一緒にいたと証言した
ために7月まで延ばしたがそれでも合わない。
増元 めぐみさんについてはしっかり変更し、るみ子についてはいい加減だった。
その時既にめぐみさんがメインだった。
◆蓮祐木子さんと3つの招待所で約1年住んだことが明らかに
西岡 というより、市川さんが79年9月4日死亡ということ自体信用できない
ということですよね。実際は(祐木子さんと別れた)79年10月以降に結婚し
たということで、79年9月に死んだ人とは結婚できない。結婚の時期が市川さ
んの死亡の時期と関係するわけで、このことは重要です。
今回明らかになったのは、ほぼ1年一緒にいたこと、また1つの招待所ではな
く3か所だったということです。1つ目が平壌駅の近くのアパート、2つ目が冷
泉(レンチョン)招待所、3つ目が順安(スナン)招待所です。
増元 平壌駅の近くのアパートに行くまで(拉致されてから)2か月くらいあり
ます。この間は南浦、清津、互いにどこにいたのでしょう。
西岡 そこは分からないです。ただ、二人一緒になって3つの招待所で約1年住
んだことが今回明らかになった。祐木子さんの手紙ではレンチョンとカタカナで
書いてありましたが、これがどこなのか惠谷さんに調査を依頼しましたのでご説
明をお願いします。
◆拉致後約2か月落ち着かせ
惠谷 るみ子さんが南浦に到着するのが8月15日または14日。通常、拉致被
害者は、即平壌に連れていかれます。これは清津についても同じです。そして、
平壌の一番いい招待所に入れるのが通常です。興富(フンプ)招待所かなと思い
ます。
その招待所で取り合えず落ち着かせる。手紙では。「るみ子さんはその間に
『金日成将軍の歌』を覚えた」とありますから、落ち着いた状況が見られます。
そして秋に平壌駅の近くのアパートに行かされた。私は平壌に行ったことがあり
ますから、あのあたりのアパートかというイメージはあります。高級な感じのと
ころです。
そして正月が開けて、冷泉招待所に移された。実は今日調べてほしいと言われ
て、慌てて調べました。平壌市の東の東大院区域に冷泉1洞と2洞があります。
証言では「郊外」とあります。今はある意味で市街地ですが、1979年当時は
かなり田舎だろうと思います。中央党幹部が住むアパートから見れば、彼女は郊
外という印象を持ったのではないかと思います。
その後、順安招待所に移りますが、順安は国際飛行場があるところで、そこよ
りもっと北に招待所があります。1年で3回移転させたのは、北朝鮮流のやり方
で、何を考えているか分かりませんが、とにかく自分の位置を悟らせないという
意識があると思います。だから転々とさせる。
ある地点に向かうのにも、車で同じところをぐるぐる廻って、そうすれば位置
が分からないだろうと彼らは考えるのです。
また1年で3回移転させたことですが、北朝鮮には招待所が無数にあります。
そこのまかないのおばさんたちに仕事を与えるためという考えもあるかもしれま
せん。失業対策のような。色々な証言を見ると、しょっちゅう移動させられてい
るようです。
西岡 るみ子さんの印象を、「優しい。おだやかな性格」と言っていますが、そ
ういう人だったのですか。
増元 配布資料(24.08.10メールニュース参照)に姉、平野フミ子からのメッセー
ジもありますが、「純真でやさしくて」という感じを書いていますが、私にとっ
ても、大学から帰る時は必ず姉が飛行場との送迎をやってくれましたし、天文館
で飲んだくれたら必ず、午前様でも必ず迎えに来てくれました。文句も言わずに
ただ笑っていました。
西岡 「最初はずっと泣いていた」、「洋服ダンスの中で泣いていた」とありま
すが、よく泣かれる人でしたか。
増元 泣き虫でしたね。怖がりというか。どんな女性でも泣くでしょう。気丈な
女性なら食ってかかるかも知れませんが。無理矢理北朝鮮に連れていかれたら泣
かない人はいないでしょう。
西岡 家族のことはその通りですね。お父さんが公務員とか。
増元 祐木子さんがよく覚えていたなあと思います。社宅に住んでいたんですが、
「定年退職したら指宿に」という部分は、姉と話したのですが、「そんなこと言っ
ていたかなあ」と言っていました。ただ、失踪後、父が方針を転換したのだろう
と思います。
今の姶良(あいら)市というのは、鹿児島市からは少し離れていますが、当時
鹿児島市内は地価が高くて、退職金では買えませんでした。指宿なら2時間くら
いかかります。父は自転車で通勤していたようですが、あまり鹿児島市から離れ
たくなかったのかなと思います。
るみ子とはよく話をしていましたが、姉のフミ子とはあまり話をしていません
でしたので、そういうこともあったのかなと思います。
◆小船の高さ1?1.3m、幅1メートルに押し込められたまま北へ
惠谷 着いた時の話ですが、南浦にるみ子さんが着いた時、足を痛めていて指導
員に抱えられて、と記憶していますがそうですか。
増元 そう聞きました。鹿児島から、中国に近いところまで行って、南浦に入る
と2日、48時間以上かかると。小さな船倉に同じ姿勢で閉じ込められています。
日本にいた時も多少腰が痛かったようですから、そういう姉が48時間以上も船
倉に閉じ込められていたら足腰が立たなくなって、腰がさらに悪化したんだろう
なと、この手紙を読んで、私は感じています。
惠谷 なぜそれを確認したかというと、色々な証言があります。拉致をする時は
工作母船で移動します。その船倉に小型の工作小船を格納します。拉致をしらた、
工作小船は母船の後ろからそのまま格納庫に入り、後ろを閉じます。そして母船
が猛スピードで帰ってきます。
るみ子さんは、その小船にある、本当に狭い所、高さが1メートルから1メー
トル30センチくらい、幅が1メートル前後のところに押し込められるのです。
そしてふたをする。食料、水は時折運ばれるわけですが。
めぐみちゃんもおそらくそんな所で、(壁を)「かきむしった」ということで
す。海上だから逃げることはできないのに、小船の狭い所に押し込めたまま連れ
ていかれたために、降りろと言われても足が動かなかっただろうと思われます。
これは、身体のショックと同時に、物理的に体が自由にならない、おそらく真っ
暗な中で連れていかれる恐怖を考えると、本当に耐えられないと思います。
西岡 そうすると、母船の中の船倉ではなく、ゴムボートから小船の船倉に入れ
られたままということですか。
惠谷 色々な証言を重ねるとそうです。これはある意味で工作員側から見ると合
理的です。拉致は3段階方式でやります。海岸からはゴムボートで沖合いに出ま
す。ある程度行くと、小船という漁船に似たようなのが待っています。小船には
魚網を入れるような小さな倉庫があり、そこに入れたまま母船の後ろから入って
いきます。
小船が格納されたら閉じて母船が猛スピードで北に向かいます。この時、小船
を母船に格納したま連れていかれたということが確認できるのがこの証言です。
◆「一緒に来た恋人は必要ないので日本に返した」とあきらめさせる
西岡 祐木子さんは、「一緒に来た恋人は必要ないので日本に返した」と言われ
た。「るみ子さんからも、同じようなことを聞いたような気がします」とありま
すね。これは皆同じですね。蓮池薫さんも、地村保志さんも、逆のことを言われ
ています。
つまり一緒に襲われ、別々に連れていかれたわけですが、2隻の船で連れてい
くわけではないので、ゴムボートは2艙あったのか、1隻だったけどお互いの気
配がしないように連れて行くことができるのか。どちらにしても小船の船倉が複
数あって、別々に入れられるということですか。
惠谷 小船の船倉が仮に一つであっても、運転台のところが高いので、そこも船
倉の代わりになります。ボートが2艙ということはありません。必ずさるぐつわ
をはめ、袋をかぶせますので、近くにいたとしても分からないようにします。
西岡 祐木子さんは、「柏崎の夕陽が見えた」と証言していますが。袋の中では
なかったことになりますが。
惠谷 本人に確認できればいいと思いますが、袋の中から見たのではないと思い
ます。
西岡 とにかく、めぐみさんと同じように本当にひどい目にあって連れていかれ
たということですね。だからこそ直後は泣いていた、と。閉所恐怖症、暗闇恐怖
症のようになっちゃったんですねえ。
増元 可能性はありますね。前に話したと思うんですが、高校生の時に、おそら
く部活動の帰りでしょうが、まだ当時街頭があまりなく、バス停から家に帰る時、
少し暗がりの所で中学生か高校生の男の子にスカートを上げられたことがありま
した。それで泣いて帰ってきたことがあったんです。それぐらいで泣く高校生だっ
たんです。
そのまま大人になったようなものでしたから、こんなに怖い状況に追い込まれ
たら、それは泣きますよね。
(2につづく)
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葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 野田佳彦殿
■救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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平成24年8月9日、第68回東京連続集会が開催された。
この東京連続集会は、当初、各被害者の思い出を語るシリーズとして開始しま
したが、改めて、拉致の状況、北朝鮮での生活、生存情報などについて、一人ひ
とりの被害者について考える集会を行うこととし、その第1回として、1978
(昭和53)年8月12日に、市川修一さんとともに拉致されて8月12日で3
4年となる増元るみ子さんの拉致に焦点を当てる集会を開催したものです。
るみ子さんの弟増元照明さん、ジャーナリストの惠谷治さん、西岡力救う会会
長が報告。
また、8月10日のメールニュースで報告しましたが、蓮池祐木子さんから増
元照明さんへの手紙は、照明さんから、お母さんがまだ元気なうちに、増元るみ
子さんと北朝鮮で約1年一緒に暮らした蓮池祐木子さんに、どのような暮らしだっ
たかを教えてほしいということ、また東京連続集会で皆様にも伝えたいというこ
とで手紙でお願いしたところ、蓮池祐木子さんが7月29日付けで返事をくれた
もので、この証言についても報告がなされました。
概要以下の通り。
■増元さん、市川さん新情報?増元るみ子さんを救うぞ!東京連続集会
◆1週間、延べ2000人くらいの大捜索
西岡 暑い中ご苦労様です。今日は、3部構成で話したいと思っています。まず、
34年前の8月12日に一体何が起きていたのかについて検証したいと思います。
次に、拉致されて以降、北朝鮮まで何日かかりますか。
惠谷 最低2日かかります。
西岡 では8月14日以降、向こうでるみ子さんはどんな目にあわされていたの
かについて、今まで語られたことがなかった蓮池(旧姓奥土)祐木子さんの証言
をご紹介します。そして祐木子さんと約1年間暮らした後、どういう生活をして
いたについて、救う会が入手していた情報をご紹介します。
まず、34年前の8月12日ですが、その時るみ子さんは何歳だったのですか。
増元 昭和28年生まれで24歳でした。
西岡 増元さんはその時、鹿児島に帰っていたんですか。
増元 ちょうど夏休みで帰っていました。北海道は早く始まりますから、お盆を
過ぎたら(北海道)大学に帰ろうと思っていました。
西岡 最後にるみ子さんに会ったのは。
増元 8月11日の夜、みんなで食事をし、その時、市川修一さんという人の存
在を知りました。翌日は土曜日で、姉は朝から会社に行きました。
西岡 その頃まだ土曜日は休みではなく、半ドンだったのですね。
増元 それで昼にいったん帰ってきました。私は確か昼くらいに起きたのです。
それで、姉が帰ってくるのを見て、着替えてまた出て行くのを見たのが最後です。
西岡 その時が市川修一さんとの初めてのデートで。
増元 改まったデートはなかったと思いますが、2、3回どこかで会っていたよ
うです。
西岡 ドライブして遠出するデートは初めて。
増元 そうですね。
西岡 夕陽がきれいな吹上浜に行くことは聞いていましたか。
増元 前の晩にそんなことを言っていました。
西岡 そして帰ってこなかった。いつおかしいなと思ったのですか。
増元 私は友人と天文館という繁華街に飲みにいって、帰ってきたのが10時か
11時くらいでした。家に帰ったらるみ子が帰ってきていない。この時、これは
事故か、何かがあったのだろうなという思いはありました。
西岡 それで次の日から現場に行って探したわけですね。
増元 記憶はあいまいですが、「もう一日待ってみよう」という市川家からの要
請があったと思います。私は運転免許を持っていなくて、吹上浜というのは車で
行かないと遠いんです。車で1時間半くらい。歩いて行くわけにはいきませんし、
行き方も分からなかった。
西岡 その後、警察に届け、警察も事件の可能性があると、大捜索をしたんです
ね。
増元 1週間、延べ2000人くらいの大捜索だった。(市川さんの)車が置い
てあった場所の周辺を捜索しました。
西岡 その時、北朝鮮の可能性については警察からは何も聞いていませんか。
増元 何もなかったですね。家に聞き込みに来た警察の方は駆け落ちも視野に入
れていたようでしたが、私は絶対に駆け落ちはないと言っていました。ありえな
いと。結婚の話はまだ何も出ていなくて。
西岡 反対されているわけでもなかった。
増元 そうです。
◆警察の一部は、北朝鮮の船が来ていたことを知っていた
西岡 ところが警察の一部は、その事件の日の前後約1週間にわたって、北朝鮮
の船が来ていたことを知っていたという事実が、平成14(2002)年の10
月19日の「南日本新聞」に出ていますね。これは5人が帰ってきた後の新聞で
す。
増元 当時警察は新聞に発表なんかしませんからね。
西岡 電波を聞いていたということ自体が秘密だったのですよね。
惠谷 そうです。新聞にも(地図が)載っていますが、怪電波発信源は母船が遊
弋していた所です。当局は秘匿していました。
西岡 これは5人が帰ってきた直後の「南日本新聞」の記事ですが、同じ年の1
2月には「読売新聞」が、電波傍受をしていたところを管轄していた警察の幹部
が、「北朝鮮の犯行だとその時に確信した」と言っています。その根拠も電波で
した。しかし、家族は拉致だとは全く分からず、神隠しとかUFOとか言われたの
ですか。
増元 そう思うしかなかったのです。警察からは、「事件性はありません。全く
分かりません。何の情報もありません」としか言われていませんでしたから。で
は何なんだとなって、もう神隠かUFOの可能性しかなくなったんです。
◆何も情報がないよりは、拉致であってほしい
西岡 「産経新聞」の阿部記者が、1979年に取材に来たんですね。そして8
0年1月に、「外国の工作機関」と書いて、北朝鮮とほぼ思われる記事が出まし
た。その時どう思いましたか。
増元 他に何もなかったので、そうあってほしいという気持ちがありました。父
も母も直接は聞いていませんでしたが、私が直接聞いて父や母に話したんですが、
父は、「もしそうだとしたら、むやみに殺すことはない」、「必ずまた会うこと
ができるだろう」と言っていました。でも半信半疑なんです。北朝鮮という国も
あまり理解していなかったし、姉が反戦運動や反北朝鮮運動をやっていたことは
ありえないので、なぜ北朝鮮が、という思いですね。それと、北に拉致されてい
るのであれば生きているという思い、少し光が見えたという感じでした。
西岡 当初から拉致ということを、少なくとも警察の一部の人は分かっていなが
ら手が打たれず、新聞報道もありながら何も起きないで、横田めぐみさんの拉致
が明らかになるまで20年間、何もしないできてしまったということですよね。
その辺のことについては何回も議論してきましたが、ここで惠谷さんに聞きた
いのは、同じ日に曽我さんがやられていますね。8月12日というのは、別々に
2隻の工作船が来て拉致をしたということで、かなり特別ですね。その背景をど
う見ますか。
◆清津連絡所と南浦連絡所が拉致、時に元山連絡所も
惠谷 北朝鮮には拉致工作をやる出撃基地が4か所あります。吹上浜の場合、黄
海側の南浦連絡所が、佐渡は日本海側の清津連絡所がやった。同時に4つのチー
ムが活躍できます。
西岡 しかし、日本担当は、その4つの全部ではないですよね。
惠谷 日本海側は北に清津、南に元山連絡所があり、黄海側、西側には南浦と海
州連絡所があります。清津は基本的に日本の日本海側の担当で、一部元山が担当
しますが、時代により変化があります。元山は基本的に韓国の東海岸が担当です。
海州が韓国の西海岸担当で、南浦は韓国の南海岸が担当で、同時に日本の九州そ
の他を担当しています。
西岡 そうすると南浦から南シナ海に来て吹上浜に、清津から日本海に来て佐渡
に、そして同じ日に拉致をしたと見るわけですね。
惠谷 どの連絡所にも「方向」というのがあり、日本的に言えば方面でしょうが、
それぞれ4つずつのチームがあります。清津連絡所の1つが佐渡に来て、南浦の
1つが吹き上げ浜に来たわけです。
工作船にも能力が必要ですが、同時に佐渡や吹上浜側にも、その拉致作戦をコ
ントロールする指導員がいます。当時の朝鮮労働党調査部に所属する工作員が、
おそらく前もって侵入している。そして党作戦部の工作船から工作員が上陸し彼
らに指示を出します。
上陸地点には、最低数人の工作員が待ち構え、うち一人は間違いなく調査部あ
るいは連絡部の工作員がいます。その他、見張りとか車を用意する、運転するな
どの協力者がいます。ですから相当な人数が投入されているということです。
西岡 地村保志・富貴江さんたちが7月7日、蓮池 薫・祐木子さんたちが7月
31日、そして(今日話題にしている)8月12日と冨山の未遂事件が8月15
日ですからひんぱんに来ていたわけです。
これは拉致そのものについてですが、今日は増元るみ子さんのことですので、
今の関連で言えば、北朝鮮はるみ子さんを拉致して海州の連絡所に上陸させたと
言っていますが、それについてどう思いますか。
惠谷 海州の連絡所は韓国の西海岸担当で、日本は管轄区域ではありません。こ
れは非常に厳密に行われ、海州連絡所の工作員が日本に来ることはありえません。
逆に言えば、その工作船が海州に入るということは99.9%ありません。他方、
るみ子さんは、南浦に着いたと証言していますし、南浦連絡所の工作員が拉致し
たことは間違いないと思います。
西岡 田口八重子さんも南浦に上陸したという情報がありますね。これは宮崎の
海岸から連れていかれたのではないかという話です。
◆松林を越えないと海が見えない所で拉致
惠谷 先ほど増元さんが言われましたが、8月12日に夕陽を見にドライブに行
きました。当日、吹上浜ではコンサートがあったので、工作員が紛れ込みやすかっ
たということもあります。コンサートを見たかどうかは分かりません。但し車は
駐車されていて、夕陽を見ようと海岸に行ったことはほぼ間違いないと思います。
西岡 あの海岸は松林があり、下の方に砂浜があって、松林を越えないと海が見
えないですね。
惠谷 そうですね。私も現場に行きましたが、砂浜には誰もいませんでした。
西岡 つまり工作船からゴムボートが来ても、松林に隠れて見えない。上陸しや
すいい場所です。
惠谷 監視をしていない限り見えない、不気味なところです。
西岡 日本では捜索活動が行われていた。しかし、警察の一部は電波を傍受して
北が怪しいと思っていた。東京では北がやったのではないかと思われていたとい
うことですが、その時、実はるみ子さんは、南浦に連れて行かれ、その後77年
8月のことですが、「その年の秋から奥土祐木子さん、後に結婚されて蓮池 祐
木子さんと一緒に暮らしておられたということが明らかになっています。
今日の、るみ子さんの集会に向けて、増元さんに、是非祐木子さんから、一緒
に暮らしていた時のるみ子さんの様子について聞いて、ここで紹介してもらえま
せんかと私がお願いをしました。そこで増元さんが手紙を書いて下さったのです
が、そして返事が来たということです。
まずそのやりとりについて増元さんから紹介してください。
増元 直接蓮池さんの所に行くかどうかですが、なかなか会えないので手紙を出
して、そしてその返事をもらおうという思いで書きました。まず、こういう集会
があること、そして姉が北朝鮮で暮らしていた時のことを教えてください、と。
よく考えると、詳しいことは私の母も知らないんです。よく聞いてないから。
北朝鮮で祐木子さんと一緒だったということは2003年5月に聞きました。
しかし、祐木子さんから、「一緒だった。子どもが生まれたことを聞いた」と
いう話でした。母も84歳になって、足腰が弱くなっています。しかし、意識は
しっかりしているので、今の内に北にいたときの姉の様子を教えてあげたいので、
是非教えてくださいと前段に書きました。
そして質問事項を12書いて、質問と質問の空欄に回答していただけるような
ものにして送りました。もしかしたら返事をくれないかのとの思いもありました
が、2週間か3週間して送られてきました。
大変丁寧に答えていただきました。別に祐木子さんからの手紙も同封されてい
ました。この手紙を紹介したいと思います。
◆蓮池祐木子さんからの手紙
増元様へ。
色々記憶をたどりながら書いたため遅くなりました。
私が北朝鮮にいた時、夜、月を見ると日本に帰れなくても、元気でいることだ
けでも日本にいる家族に知らせることができたらどんなにいいだろうと思ったも
のです。
るみ子さんが元気でいてくれて、一日も早く嬉しい知らせが来ることを待って
います。るみ子さんのお母さんが元気でいらっしゃる内にできることを心から祈っ
ています。
7月29日
この手紙を添えて回答(全文は、メールニュース24.08.10)が来ました。
その回答を、私の声では何ですから、美しい女性の声で、読んでいただきます。
朗読は桜応援団の伊原さん。増元さんが質問を読み、伊原さんが祐木子さんの
返事を読む形で朗読。
西岡 私も読ませていただいて、大変心がこもった手紙だなあと思い、全文紹介
したいと思ったのですが、ご本人に了承をとらなければと思い増元さんから確認
の電話をしていただいたのですが、その時のご返事を。
増元 ご自宅はお留守で、薫さんに連絡しました。「ご返事ありがとうございま
す」と言ったら、「ああ、届きましたか」と言われました。「集会で全文を皆さ
んに聞いていただきたいと思うんですが、どうでしょうか」と聞いたら、「私た
ちがご家族にあてた手紙を、ご家族がどのように使おうと、それは語家族の皆さ
んの自由にしてください。私たちもこちらで皆さんの帰国が早くできるように頑
張りますので頑張ってください」というご返事でしたので、感謝を申し上げて電
話をきりました。
西岡 この手紙の内容について、増元さんが感じられたことや専門家の立場から
惠谷さんとも議論をしていきたいと思います。
西岡 「白い椅子」ってどんなものですか。
増元 姉にも聞いたのですが、「なかっただろう」ということでこの点について
は記憶違いじゃないかと思います。
西岡 まず北朝鮮が言っていることをきちんと確認したいのですが。
◆北朝鮮が結婚年月日を単なる勘違いと訂正
増元 79年10月25日まで一緒にいたということは、北朝鮮が、姉と市川修
一さんが結婚したのは1979年4月と言ってきました。それなら79年4月に
結婚する筈がないと思い、政府に伝え、北朝鮮にもそういう質問をしました。そ
したら、79年7月に結婚したと訂正してきました。
横田めぐみさんが、(北朝鮮が伝えた死亡日の)翌年の3月まで生きていたと
いう質問とともにぶつけたら、めぐみさんの訂正は、単なる勘違いと言ってきま
したが、姉の場合は79年4月ではなく7月と言ってきました。
しかし10月まで祐木子さんと暮らしていたのですから合ってない。今考える
と、西岡さんが出した情報では80年7月に結婚を承認したとなっていますので、
それが念頭にあって7月にしちゃったのではと思いました。
それでも79年ではつじつまが合わないのですが、それだけいい加減というこ
とです。
西岡 北朝鮮の主張については、「市川修一・増元るみ子さん情報」にあります
が、「1979年7月に結婚」したと今、北朝鮮は言っています。しかし、先ほ
ど増元さんが言ったように、最初は「79年4月」と言いました。
つまり、79年9月に市川さんが死亡したと言っているので、その前に結婚さ
せなければいけない。79年10月まで蓮池祐木子さんが一緒にいたと証言した
ために7月まで延ばしたがそれでも合わない。
増元 めぐみさんについてはしっかり変更し、るみ子についてはいい加減だった。
その時既にめぐみさんがメインだった。
◆蓮祐木子さんと3つの招待所で約1年住んだことが明らかに
西岡 というより、市川さんが79年9月4日死亡ということ自体信用できない
ということですよね。実際は(祐木子さんと別れた)79年10月以降に結婚し
たということで、79年9月に死んだ人とは結婚できない。結婚の時期が市川さ
んの死亡の時期と関係するわけで、このことは重要です。
今回明らかになったのは、ほぼ1年一緒にいたこと、また1つの招待所ではな
く3か所だったということです。1つ目が平壌駅の近くのアパート、2つ目が冷
泉(レンチョン)招待所、3つ目が順安(スナン)招待所です。
増元 平壌駅の近くのアパートに行くまで(拉致されてから)2か月くらいあり
ます。この間は南浦、清津、互いにどこにいたのでしょう。
西岡 そこは分からないです。ただ、二人一緒になって3つの招待所で約1年住
んだことが今回明らかになった。祐木子さんの手紙ではレンチョンとカタカナで
書いてありましたが、これがどこなのか惠谷さんに調査を依頼しましたのでご説
明をお願いします。
◆拉致後約2か月落ち着かせ
惠谷 るみ子さんが南浦に到着するのが8月15日または14日。通常、拉致被
害者は、即平壌に連れていかれます。これは清津についても同じです。そして、
平壌の一番いい招待所に入れるのが通常です。興富(フンプ)招待所かなと思い
ます。
その招待所で取り合えず落ち着かせる。手紙では。「るみ子さんはその間に
『金日成将軍の歌』を覚えた」とありますから、落ち着いた状況が見られます。
そして秋に平壌駅の近くのアパートに行かされた。私は平壌に行ったことがあり
ますから、あのあたりのアパートかというイメージはあります。高級な感じのと
ころです。
そして正月が開けて、冷泉招待所に移された。実は今日調べてほしいと言われ
て、慌てて調べました。平壌市の東の東大院区域に冷泉1洞と2洞があります。
証言では「郊外」とあります。今はある意味で市街地ですが、1979年当時は
かなり田舎だろうと思います。中央党幹部が住むアパートから見れば、彼女は郊
外という印象を持ったのではないかと思います。
その後、順安招待所に移りますが、順安は国際飛行場があるところで、そこよ
りもっと北に招待所があります。1年で3回移転させたのは、北朝鮮流のやり方
で、何を考えているか分かりませんが、とにかく自分の位置を悟らせないという
意識があると思います。だから転々とさせる。
ある地点に向かうのにも、車で同じところをぐるぐる廻って、そうすれば位置
が分からないだろうと彼らは考えるのです。
また1年で3回移転させたことですが、北朝鮮には招待所が無数にあります。
そこのまかないのおばさんたちに仕事を与えるためという考えもあるかもしれま
せん。失業対策のような。色々な証言を見ると、しょっちゅう移動させられてい
るようです。
西岡 るみ子さんの印象を、「優しい。おだやかな性格」と言っていますが、そ
ういう人だったのですか。
増元 配布資料(24.08.10メールニュース参照)に姉、平野フミ子からのメッセー
ジもありますが、「純真でやさしくて」という感じを書いていますが、私にとっ
ても、大学から帰る時は必ず姉が飛行場との送迎をやってくれましたし、天文館
で飲んだくれたら必ず、午前様でも必ず迎えに来てくれました。文句も言わずに
ただ笑っていました。
西岡 「最初はずっと泣いていた」、「洋服ダンスの中で泣いていた」とありま
すが、よく泣かれる人でしたか。
増元 泣き虫でしたね。怖がりというか。どんな女性でも泣くでしょう。気丈な
女性なら食ってかかるかも知れませんが。無理矢理北朝鮮に連れていかれたら泣
かない人はいないでしょう。
西岡 家族のことはその通りですね。お父さんが公務員とか。
増元 祐木子さんがよく覚えていたなあと思います。社宅に住んでいたんですが、
「定年退職したら指宿に」という部分は、姉と話したのですが、「そんなこと言っ
ていたかなあ」と言っていました。ただ、失踪後、父が方針を転換したのだろう
と思います。
今の姶良(あいら)市というのは、鹿児島市からは少し離れていますが、当時
鹿児島市内は地価が高くて、退職金では買えませんでした。指宿なら2時間くら
いかかります。父は自転車で通勤していたようですが、あまり鹿児島市から離れ
たくなかったのかなと思います。
るみ子とはよく話をしていましたが、姉のフミ子とはあまり話をしていません
でしたので、そういうこともあったのかなと思います。
◆小船の高さ1?1.3m、幅1メートルに押し込められたまま北へ
惠谷 着いた時の話ですが、南浦にるみ子さんが着いた時、足を痛めていて指導
員に抱えられて、と記憶していますがそうですか。
増元 そう聞きました。鹿児島から、中国に近いところまで行って、南浦に入る
と2日、48時間以上かかると。小さな船倉に同じ姿勢で閉じ込められています。
日本にいた時も多少腰が痛かったようですから、そういう姉が48時間以上も船
倉に閉じ込められていたら足腰が立たなくなって、腰がさらに悪化したんだろう
なと、この手紙を読んで、私は感じています。
惠谷 なぜそれを確認したかというと、色々な証言があります。拉致をする時は
工作母船で移動します。その船倉に小型の工作小船を格納します。拉致をしらた、
工作小船は母船の後ろからそのまま格納庫に入り、後ろを閉じます。そして母船
が猛スピードで帰ってきます。
るみ子さんは、その小船にある、本当に狭い所、高さが1メートルから1メー
トル30センチくらい、幅が1メートル前後のところに押し込められるのです。
そしてふたをする。食料、水は時折運ばれるわけですが。
めぐみちゃんもおそらくそんな所で、(壁を)「かきむしった」ということで
す。海上だから逃げることはできないのに、小船の狭い所に押し込めたまま連れ
ていかれたために、降りろと言われても足が動かなかっただろうと思われます。
これは、身体のショックと同時に、物理的に体が自由にならない、おそらく真っ
暗な中で連れていかれる恐怖を考えると、本当に耐えられないと思います。
西岡 そうすると、母船の中の船倉ではなく、ゴムボートから小船の船倉に入れ
られたままということですか。
惠谷 色々な証言を重ねるとそうです。これはある意味で工作員側から見ると合
理的です。拉致は3段階方式でやります。海岸からはゴムボートで沖合いに出ま
す。ある程度行くと、小船という漁船に似たようなのが待っています。小船には
魚網を入れるような小さな倉庫があり、そこに入れたまま母船の後ろから入って
いきます。
小船が格納されたら閉じて母船が猛スピードで北に向かいます。この時、小船
を母船に格納したま連れていかれたということが確認できるのがこの証言です。
◆「一緒に来た恋人は必要ないので日本に返した」とあきらめさせる
西岡 祐木子さんは、「一緒に来た恋人は必要ないので日本に返した」と言われ
た。「るみ子さんからも、同じようなことを聞いたような気がします」とありま
すね。これは皆同じですね。蓮池薫さんも、地村保志さんも、逆のことを言われ
ています。
つまり一緒に襲われ、別々に連れていかれたわけですが、2隻の船で連れてい
くわけではないので、ゴムボートは2艙あったのか、1隻だったけどお互いの気
配がしないように連れて行くことができるのか。どちらにしても小船の船倉が複
数あって、別々に入れられるということですか。
惠谷 小船の船倉が仮に一つであっても、運転台のところが高いので、そこも船
倉の代わりになります。ボートが2艙ということはありません。必ずさるぐつわ
をはめ、袋をかぶせますので、近くにいたとしても分からないようにします。
西岡 祐木子さんは、「柏崎の夕陽が見えた」と証言していますが。袋の中では
なかったことになりますが。
惠谷 本人に確認できればいいと思いますが、袋の中から見たのではないと思い
ます。
西岡 とにかく、めぐみさんと同じように本当にひどい目にあって連れていかれ
たということですね。だからこそ直後は泣いていた、と。閉所恐怖症、暗闇恐怖
症のようになっちゃったんですねえ。
増元 可能性はありますね。前に話したと思うんですが、高校生の時に、おそら
く部活動の帰りでしょうが、まだ当時街頭があまりなく、バス停から家に帰る時、
少し暗がりの所で中学生か高校生の男の子にスカートを上げられたことがありま
した。それで泣いて帰ってきたことがあったんです。それぐらいで泣く高校生だっ
たんです。
そのまま大人になったようなものでしたから、こんなに怖い状況に追い込まれ
たら、それは泣きますよね。
(2につづく)
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