10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記(全文)(2012/09/21)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2012.09.21)
曽我ひとみさんが9月20日、帰国して10年を振り返る手記を公表した。曽
我さんは、1978年8月12日に母ミヨシさんとともに佐渡から拉致された。
そして2002年10月15日に蓮池さん夫妻、地村さん夫妻と共に24年ぶり
に帰国した。
手記では、「この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけ
が日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる」
とある。帰国した拉致被害者は、すべての拉致被害者が帰国しないと、「申し訳
なさ」が募り、本当の意味での幸せにはなれない。
A4で9枚の紙に、家族、関係者、友人等多くの人に迎えられたこと、34年
間日本語を使っていなかったため相当期間日本語が出てこなかった苦しさ、家族
の帰国まで日本で待つことの決心、初期癌の発見と手術。もし北朝鮮に戻ってい
たら治療ができただろうか。帰国後、夫の入院中の父の入院、保健師の仕事、家
族の帰国、4人一緒なら乗り越えていけると思ったこと、父の死、夫の家族との
面会、など予測できないことが次々に起こった日々が綴られている。そして未だ
拉致された母に会えない苦しみ、拉致被害者に対しては「決して諦めないこと」
を訴えた。
すべての拉致被害者が帰国しなければ、帰国した被害者の心も痛み続けている
ことを改めて感じさせる曽我さんの手記。一日も早い解決が必要だ。
■10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記(全文)
曽我ひとみさんが9月20日、帰国して10年を振り返る手記を公表した。曽
我さんは、1978年8月12日に母ミヨシさんとともに佐渡から拉致された。
そして2002年10月15日に蓮池さん夫妻、地村さん夫妻と共に24年ぶり
に帰国した。
手記では、「この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけ
が日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる」
とある。帰国した拉致被害者は、すべての拉致被害者が帰国しないと、「申し訳
なさ」が募り、本当の意味での幸せにはなれない。
A4で9枚の紙に、家族、関係者、友人等多くの人に迎えられたこと、34年
間日本語を使っていなかったため相当期間日本語が出てこなかった苦しさ、家族
の帰国まで日本で待つことの決心、初期癌の発見と手術。もし北朝鮮に戻ってい
たら治療ができただろうか。帰国後、夫の入院中の父の入院、保健師の仕事、家
族の帰国、4人一緒なら乗り越えていけると思ったこと、父の死、夫の家族との
面会、など予測できないことが次々に起こった日々が綴られている。そして未だ
拉致された母に会えない苦しみ、拉致被害者に対しては「決して諦めないこと」
を訴えた。
すべての拉致被害者が帰国しなければ、帰国した被害者の心も痛み続けている
ことを改めて感じさせる曽我さんの手記。一日も早い解決が必要だ。
■10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記
時の流れ ―10年を振り返って―
「もう10年になるんだなあ」
年が明けて平成24年になった。その日から何度この言葉をつぶやいたことか。
その度に色んなことが頭の中を駆け巡る。思い出したくないことは鮮明に浮かん
でくる。覚えていたいことは、時間の経過とともにぼんやりとしたものになって
くる。あれやこれやと考えているといたたまれない気持ちになり、同時に胸が締
め付けられじっとしていられなくなる。この10年という時間の流れの速さ、長
さを考えると、自分だけが日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで
頭の中がいっぱいになる。正直なところ、私達5人が帰国し、拉致問題が大きく
クローズアップされたことにより、他の拉致被害者が続々と帰国してくるものと
思っていた。しかしこの10年、これといった成果は見られなかった。拉致被害
者を待つ家族の気持ちを考えると、一日一日がとても貴重な時間であり、もう待
てないところまで来ている。一体どうすれば解決できるのだろうか。誰も答えを
引き出すことなど出来ないのではないだろうか。それほど難しい問題なのだと思
う。でも、今の状態がずっと続くことは許されない。何か解決の糸口が見つかっ
てほしいと願うばかりだ。ここで、この10年を振り返ってみる。
何から書けばいいだろう。ちょっと思い出してみる。そう、やっぱり最初に思
い出すのは、帰国できた最大の要因となった日本の調査団との面会だろう。平成
14年9月17日、日本の調査団がやってきた。実は、党の幹部から事前に調査
団が来ることを告げられていた。ただ、今までだまされ続けてきたので、本当に
面会できるのか半信半疑だった。私は、党の幹部と指導員と同伴で、面会会場へ
行った。24年間、待ちに待った瞬間が本当にやってきた。夢に見たことが現実
となったのだ。この時の嬉しさをどう表現すればいいのか分からないほど舞い上
がっていた。
当時はすっかり日本語を話せなくなっていたので、通訳を介してのやりとりが
あった。心の中では、自分が「曽我ひとみ」であることを日本語で叫んでいた。
一つ一つの質問がもどかしい。早く私を「曽我ひとみ」だと認めてほしいと気持
ちが焦っていた。どのくらいの時間が経っただろう。調査団の人達が「曽我ひと
み」本人であると認めてくれたのだ。その時の嬉しさは今も忘れていない。ただ、
残念なこともあった。その面接の時、一枚の写真を見せられた。「誰か分かりま
すか?」と開かれ、「私です」と答えたら相手は不思議そうな顔をしていた。思
いつく人物がいないので、ずっと考え込んでいたら「あなたのお母さんですよ」
と言われた。あんなにも会いたくて会いたくて思い続けた母の顔を忘れていたの
だ。確かに初めて見る写真ではあったが、母の顔を忘れているなんて想像もして
いなかったのだ。あの時の何とも表現し難い衝撃は、その後の幾多の出来事で味
わった衝撃と比較できないほどであった。全身の力が一気に抜けてしまったこと
を今も覚えている。
その後、日本へ一時帰国することになった。娘たちは、「日本に帰るのに、日
本語話せるの?」「少しでも日本語が話せた方がいいよ。今から少しでもいいか
ら日本語の勉強しなさいよ」と、あれやこれやと世話をやいてくれた。娘たちの
気遣いがとても嬉しかった。とはいえ、「一夜漬けの勉強でどうなるものでもな
い」「日本に行けば何とかなるさ」と、今思えば、かなり肝が据わっていたよう
だ。出発の日、空港まで夫と娘たちが見送りに来てくれた。「いよいよ、日本へ
帰れる」。心の中では、飛び上がるほどの嬉しさがこみ上げていた。でも半面、
不安もあった。佐渡の家族は、親戚や友人は、私を覚えているだろうか?。私を
受け入れてくれるだろうか?。いろんな思いが頭をぐるぐる駆け巡っていた。つ
いに飛び立った。
平成14年10月15日、24年ぶりに帰ってくることができた日本。着陸態
勢に入った。窓から見える空港の景色。なぜか大勢の人達が見える。私たちの他
に誰か有名人でも出迎えにきているのだろうか。軽い気持ちでいた。ところが、
タラップへ出てきたらびっくりした。あの窓から見えた人達は、私達5人を出迎
えるため集まっていたのだった。日本では、拉致問題がとてつもなく大きな出来
事なのだと、このとき初めて知った。ただ私自身は、自分の国へ帰ってきただけ
なのに、という単純な思いしかなかった。出迎えの人達は口々に「お帰りなさい」
と言っている。知らない人達ばかりだった。
必死に家族を探した。妹の姿が見えた。お互いに駆け寄り抱き合った。嬉しく
て涙が止まらない。でも、話が出来ない。いっぱい、いっぱい話したいことがあ
るのに、言葉が出てこない。もどかしくて、自分でもどうしたらいいのか分から
なくなっていた。会話もままならない状態でホテルへ着いた。
部屋に入って一息ついていたら、政府関係者が訪ねてきた。「この後、被害者
全員で会見があります。その場で一言でいいので、話をしてください」と言う。
「妹とさえまともに話ができないのに、一言でいいから何かを言えとは…」と途
方にくれた。必死に言葉を探した。「会いたかったです」の言葉が浮かんできた。
部屋の中で何度も何度も声を出して練習した。私にはやっとひねり出した日本語
だったのだ。会見場にいた人やテレビを見ていた人たちには、何か物足りないと
感じたかもしれないが、私には清水の舞台から飛び降りる気持ちで発した日本語
だったのだ。言った後、ドキドキした胸のつかえが一気に取れた気がした。会見
が終わればゆっくりできるかと思っていたが、なかなか一人になる時間を与えて
もらえなかった。東京滞在中は、家族会の人たちや政府関係者との面会が続き、
日本に帰ってきた感動を味わうどころではなかった。
10月17日、佐渡へ帰ってきた。新潟から飛行機で20分余りのフライトだっ
たが、窓から見える佐渡島は、何も変わっていないように見えた。島影が見えた
途端、胸が詰まり涙が自然にこぼれてきた。到着するまでの間、ずっと泣きっぱ
なしだった。マイクロバスに乗り込み、真野町(現・佐渡市)役場に向かった。
車窓から見える佐渡の風景は、私がいたころと随分変わっていた。道路は広く
なり全て舗装され、街灯もたくさんついている。家並みも整い、きれいな家がいっ
ぱいあった。自動車もたくさん走っていて、ここが本当に佐渡なのだろうかと目
を疑うような変化に驚いたことを思い出す。役場に着いた。玄関先で大勢の人達
が出迎えている。町長はじめ役場の職員、議員、そして同級生たち。同級生は、
みんなそれなりに年を取っていたが、一人ひとり誰なのか名前を言わなくても分
かった。ただ、相変わらず日本語が出ない。同級生の言葉にただ頷くしかなかっ
た。言葉を交わさなくても、みんなが私を忘れていなかったことがすごく嬉しかっ
た。ゆっくりすることもなく、四日町の集落センターへ。
挨拶もそこそこに、自宅へ向かった。マイクロを降りると父が足を引きずりな
がら駆け寄ってきた。私も小走りに駆け寄り抱き合って泣いた。ただ、謝ること
しかできなかった。死んだと思っていた娘が帰ってきたのだ。父も私の姿を見る
までは信じられない思いだったはずだ。お互い多くを語らなくても嬉しさが伝わっ
ていた。それにしても、本当に久しぶりの父の佐渡弁が耳に心地よく響いた。ほ
んの少しではあるが、日本語が甦ってきて、片言だけど話をすることができた。
親戚の人も近所の人も集まっていた。みんな泣いていた。温かく迎えてくれた
ことが本当に嬉しくて、「やっぱり故郷はいいなあ、帰ってきて良かった」と心
の中でつぶやいていた。でも、嬉しい半面、悲しい気持ちもあった。その場に母
の姿がないことだった。調査団の人に、「佐渡にお母さんはいません」と言われ
ていたが、信じることができないでいた。タラップを降りるときも、もしかして
迎えにきてくれているかもしれないと僅かな望みを抱いていた。だけど、やっぱ
り母はどこにもいなかった。
辛い現実をつきつけられた思いと、それを受け入れなければならないと自分に
言い聞かせながら、やっぱり否定する自分がいて、その狭間での葛藤は苦しいだ
けだった。その夜は、疲れているはずなのだが、興奮していてなかなか寝付けな
かったことを思い出す。それにしても、次の日からあんなに忙しくなるなど想像
もしていなかったので、今思えばよくあれだけの日程をこなしてきたものだと感
心している。
18日、墓参りに行き、午後からは高校の卒業証書授与式に出席した。卒業ま
で半年あまりとなった年に拉致されたのだ。心残りとなっていた問題の一つが解
決された喜びがあった。半面、本音を言うと40歳を過ぎて賞状を受け取るのは
恥ずかしかった。でも、私一人のために式を用意してくれたことが嬉しく、みん
なと同じ卒業生になれたことも最大の喜びだった。関係者のみんなに心から感謝
した。
式の後は同級会があり、24年ぶりに同級生たちに再会した。みんながそれぞ
れの24年を過ごしたんだなぁと、一人一人の顔や姿を見て思った。それは、2
1日参加した小中学校の同級会でも同様の感想であった。中には、「あの人誰だっ
け?」と、名前と顔の一致しない同級生もいた。月日の流れは人の記憶を曖昧に
するものだと実感した。でも、やっぱり友達というのは良い。会えば一瞬で過去
の自分に戻してくれる。友達の存在は、過去も現在も私の宝だと思っている。
そうそう、23日の佐渡病院訪問でも嬉しいことがあった。24年間、被るこ
とがなかったナースキャップを着けてもらったことだ。自分の一生の仕事だと思
い、勤務し始めた矢先の出来事だっただけに、中途半端で投げ出したことに責任
を感じていたが、ナースキャップを頭に載せられた時は、看護師に戻った気分に
なり嬉しかった。
日本滞在中は、毎日忙しかったが充実していた。北へ帰る時間が迫れば迫るほ
ど、故郷への思い、家族、親せき、友人たちへの思いが捨てきれずに心が痛んだ。
かといって、北にいる夫や娘たちへの思いも募る。両方の国にいる愛する人たち
の狭間で体が二つあったらどんなにいいかと何度も思った。
そんな折、「拉致被害者5人を北へ帰さない」との政府方針が発表となった。
一時帰国と思っていた私は、着々と帰る支度をしていたのだ。正直ショックだっ
た。「北に逆らえば、家族はどうなるのか?」。そのことばかりが頭の中をぐる
ぐる駆け巡る。24年間、逆らうことなく言うがままにしていたから、私は生き
延びてこられたのだと確信していた。それなのに、北へ逆らえと日本政府は言う
のだ。私の返事次第で家族の処遇が決まると思い込んでいた私は、どうすること
も出来ず悩む毎日だった。
返事を出せないまま数日が過ぎた時のことだった。日本滞在中に健康診断でも
受けたらとのアドバイスもあり、特に悪いところはなかったのだが、せっかくな
ので人間ドックを受けることにした。その時、先生から「ちょっと肺に気になる
ものがあります。まだほんの小さな粒程度ですが、もし時間が経って大きくなる
ようなら手術した方がいいと思います。まずは、1年くらい様子を見ましよう」
と言われた。
私は、すぐに「肺がん」だと確信した。なぜなら、北にいたときドイナ(同じ
建物に住んでいたルーマニア人拉致被害者)が肺がんで亡くなっていた。初期の
症状からずっと見ていた私には、肺に何かがあるというだけで、理解することが
できたのだ。精密検査をするため組織を取ったが、ほぼ間違いなく悪性だろうと
思われた。怖くなった。目の前に「死」が迫っていると感じた。だが、先生が
「ほんの初期ですから心配いらないですよ」と言ってくれたので安心できた。こ
れが北朝鮮だったら、私は確実に死んでいただろう。ドイナのように、死ぬ直前
まで故郷を思い、二度と故郷の土を踏むことが叶わなかっただろう。未練を残し
たまま死ぬことを考えたら、日本に帰れたことを感謝した。
数日後、いろんな悩みを抱えた状態で、北へ帰るか日本に留まるかの結論を出
す時がきた。これまでに、たくさんの人たちが私を説得しに来た。一人で結論を
出すのが怖かった。家族の安全が保障されるならすぐにでも返事をしただろう。
でも確信のないものに返事はできなかったのだ。両方にいる家族への思い、自分
の病気のこと、日本政府を信じてもいいのか、眠れない日々を送りやっとの思い
で結論を出した。「日本に留まり、家族を待つ」と決めた。結局、帰国した5人
ともに同じ結論を出したのだった。
5人が日本に残るということは、私にとって少しでも励みになることだった。
でも、私以外は夫婦で帰国している。何かと相談できる相手がいるということだ。
私には何でも話せる相手がいない。これは、家族を取り戻すまでの間、かなりこ
たえた。毎日どこかへ誰かと出かける。この時間は気を紛らすことができたが、
帰宅した後は何とも言えない孤独感に見舞われた。「本当にこの選択でよかった
のか?」「夫や娘たちは、本当に無事でいるのだろうか?」と心配する毎日だっ
た。ただ、時間の経過とともに、いろいろと世話を焼いてくれる人が現れ、北の
家族の情報が嬉しくない形で入ってくることもあった。今思い出しても、あの時
が一番苦しい時だったように思う。
辛い日々を過ごしながら、手術の日が迫っていた。実は、私の病気は非公表で
あったため、当時の真野町役場に箝口令が敷かれていた。マスコミの目を盗み、
ひそかに東京へ。誰にも気づかれないよう偽装工作をし、入院することに成功し
た。その後、手術も無事終わりこのまま秘密を維持したまま佐渡で何食わぬ顔を
して普段通りの生活に戻ればいいのだと考えていた。
ところがこの秘密が、あっという間にバレてしまうのである。当時の関係者が
マスコミに話してしまったのだ。さあ、この話を聞いたマスコミは怒り心頭であ
る。役場の支援室とマスコミとの信頼関係はぶち壊しとなり、当時の支援室長は
窮地に立たされ、結局、町長筆頭にマスコミに謝罪することになってしまった。
私の知らないところで、大変な事態となっていたのだ。後日、この話を聞いたと
きはすでに笑い話となっていたので安心して聞くことができた。当時の支援室長
の人柄もあったのだが、私に心配の種を残さないようにしてくれていたのだなと
感じた。私にとっては、とても心強い味方であった。今ももちろんのこと、これ
から先も感謝の気持ちを忘れることはないだろう。
佐渡での生活を始めてから、何かと忙しい日々を送っていたある時、「旦那
さんや娘さんたちが帰ってきたら、佐渡では車がないと不便だよ。免許取ったら
どう?」と勧められた。家族が帰ってきたら自分が生活の中心となる。確かにそ
うだった。当時は、どこへ行くにも送迎付きだったが、正直自分が出かけたい時
に勝手に出かけることは出来なかった。いつまでも人を頼ってばかりではいけな
いと思い、自動車学校へ行くことを決めた。
免許取得までにはスケジュールを調整したり手術があったりと少し時間はかかっ
たが、免許証を手にすることができた。嬉しかった。夫や子供たちが帰ってきた
ら、買い物はもちろんのこと、どこへ連れて行こうかと考えるのが楽しかった。
早く運転が上手になることと、佐渡の道路になれるために、頻繁に車で出かける
ようにした。今だから暴露するが、初心者マークは4?5年つけたままにしてお
いた。運転に自信がなかったことから、対向車や後ろについた運転者が気をつけ
てくれるだろうと思ったのだ。おかげで大きな事故もなく、(車の擦り傷、打撲
はあったが)現在まで運転できている。
そんなある日、役場から「一通りのスケジュールも終了したこと、佐渡での生
活にもだいぶ慣れてきたことから、少し仕事でもしてみないか」と言われた。確
かに、今後についての見通しは立っていなかった。准看護師の資格だけでは、医
療現場に戻ることもできない。かといって、それ以外の仕事を経験したこともな
い。普通の会社員として働くにしても、24年のブランクが大きすぎてちゃんと
仕事をこなせる自信がなかった。
それでも何か仕事はしたいと思っていた。役場からは「役場で保健師の助手と
してどうか」とのことだったので了承した。一つ一つ丁寧に指導してくれた保健
師や職員の温かい対応に、仕事をするのが楽しいと感じるようになっていった。
そんな中、母を中心とする拉致被害者救出の大集会を島内で開催することとなっ
た。救う会全国協議会、家族会の主だった方たちが出席してくれた。また、国会
議員や議連、全国の救う会の会長など、本当にたくさんの人たちが参加してくれ
た。島民大集会をやってよかったと思った。母への思いは、この後まとめて書く
つもりでいるのでここでは触れない。
年が明けた平成16年、「今年こそは事態が進展し、家族が帰ってくるように」
と地元の神社へ初詣にいった。昨年も行ったが、何の動きもなかったのだ。頻繁
に日朝協議を行っているようではあったが、嬉しい知らせはなかった。毎日淡々
と仕事をした。仕事をしている時だけは、何も考えなくてよかったからだ。下手
に期待を持つと裏切られた時、立ち直るまでに時間がかかる。北にいた24年間
で数えきれないほど経験したのだ。だから期待は半分で毎日を過ごしていた。そ
んな時である。国から「小泉首相が、2回目の訪朝をする」とのニュースが飛び
込んできた。正直驚いたし、嬉しかった。家族を取り戻すという私たち被害者の
声を受け止め、行動に移そうとしていたのだ。政府の真剣に取り組む姿勢に、半
分の期待が、十分の期待に変わっていった。
8月23日、佐渡へ向かった。佐渡へ行くことが決まってから娘たちは、「佐
渡ってどんなところだ」とまたまた質問攻めだった。想像を巡らせていた佐渡を
実際の目で見ることとなった。佐渡に着き、市役所経由で病院へ直行した。初め
て見るじいちゃん、初めて見る孫、お互い戸惑っていた。言葉も通じないから、
私が通訳した。娘たちが覚えたての日本語で書いた見舞いの手紙を持参していた。
上手なことを言えない父であるが、孫からの手紙は嬉しかったようである。薬も
効いているおかげで、見た目はとても元気だった。相変わらずの佐渡弁に、娘た
ちは「初めて聞く言葉だ。あれが日本語か?」と違う国へ来たような感じがした
らしい。確かに、父の佐渡弁は独特であり、通訳が必要だった。父の言葉を標準
語に直したり、朝鮮語にしたりと通訳した私も頭の中が混乱しそうになった。
この時は、入院間際だったこと、病状も安定していたこともあり、3日間の滞
在で再び上京した。この一時帰郷ですっかり佐渡が気に入った娘たちは、すぐに
でも佐渡に住みたいといい、次はいつ戻れるのかと、しきりに聞いてきた。一日
も早く佐渡へ帰れるに越したことはないと、私自身も定住する日が来るのを楽し
みにしていた。
上京して間もなく夫はキャンプ座間へ出頭することとなった。これより米軍の
指揮下に置かれ、軍法会議に臨むこととなる。処遇が決定するまで時間があると
いうことで、日米関係者の許可を得て再び佐渡へ戻ることになった。約1か月余
りであったが、私も娘たちも充実した佐渡生活を送ることができた。父も私たち
が見舞いに来るのを楽しみに待つようになり、次の見舞いには「あれがほしい、
これが食べたい」と少しだけ甘えるようになった。でも、私には嬉しいことだっ
た。母と私がいなくなってからずっと一人で生きたのだから、これからは親孝行
しなくてはと思っていた。だから、少々のわがままも聞いてやろうと思っていた
からだ。そんな父も翌年2月に永眠した。
亡くなる間際まで、「今度は、母ちゃんが帰ってくる。飛行機に乗って帰って
くる」「母ちゃんが帰ってきたら、謝りたい」と口癖のように言っていた父の顔
を今でも忘れられない。結局、母とは永遠に会えないままこの世を去った。ただ、
私の家族に会わせることができたこと、最後まで父のそばにいられたことで、父
も少しは幸せを感じでくれただろうと思っている。
12月7日、念願だった家族揃っての佐渡入りとなった。この日から新しいス
タートを切ることになった。娘たちも将来のことを考え、進学することになった。
夫も家でじっとしているのが嫌だというので、就職先を探すことになった。
年が明けた平成17年、夫のお母さんに会いに行くことが決定した。90歳を
過ぎているが健在だと聞いていたからだ。「もし、北朝鮮を脱出することができ
たら、絶対会いに行くべきだ」と話していた。6月、家族全員でアメリカへ行っ
た。10日足らずではあったが、夫も母親に会えて嬉しそうであった。義母もま
た、40年以上行方不明となっていた息子に会えて顔をくしゃくしゃにして喜ん
でくれた。夫もまた親孝行をすることができたのだ。そんな姿を見て、母と重ね
合わせていた。「母にも私の家族を会わせてあげたい」とさらに思いを強くした。
この再会から3年後、義母は夫を含む息子、娘たちに看取られながら永眠した。
心配し続けた息子に会えたことで、肩の荷を下ろすことができたのだろうと思っ
ている。
アメリカから帰って来て、いつもの生活に戻った。日中は仕事に集中している
が、自宅に帰り一人になる時間ができると、決まって母のことを思い出すように
なった。義母の姿と重なるのだ。足腰が弱り、介助が必要となっているのではな
いか。寝たきりで不自由を感じているのではないか、と悪いことばかりが頭の中
をよぎる。その思いを打ち消すために、拉致される前の母の顔を思い浮かべる。
いつもにこにこと優しい笑顔で、私たち姉妹の面倒を見てくれた大好きな母の姿
だ。考えてみれば、19年間いつも傍らにいてくれた。こんなに長い間、離れ離
れになったことはなかったのだ。何でこうなってしまったのか。どうして私たち
母娘が拉致の標的になってしまったのか。どんなに考えても答えは出てこない。
日本に帰国して以来、ずっとこんな答えの出ない自問自答を繰り返している。
どこをどうしたら、こんな残酷な運命になるのか。時々、どうしようもなく大声
で叫びたくなる。「母を返して」「私の24年間を返して」と。でも、その度に
「過去は変えられない、元に戻すことはできないのだ」と、落ち込みながら頭を
冷やす。そしてまた、自分だけが帰国したことを責める。いつまでこんなことが
続くのだろう。終わりが見えない。
母と離れ離れになって間もなく34年になる。つい最近、母の夢を見た。ここ
数年、母は夢にも現れてくれなかったのだ。目が覚めると、胸がドキドキしてい
た。でも、母が元気な姿で現れたので、ホッとしたことを今でも鮮明に記憶して
いる。偶然にも私の誕生日だった。きっと、私に「おめでとう」を言いたくて現
れたのだろうと良い方に考えている。
拉致される前の母の姿だった。何も変わっていなかった。「母ちゃん、夢に出
てきてくれて、ありがとう」「私は元気だから、心配しないでね」「母ちゃんは、
元気にしているの?どこか悪いとこはないの?」「また、夢に出てきてくれる?」
「本当は、会いたいよ」と私は語りかける。でも返事はない。母の顔を思い出し
ながら、涙が自然とこぼれる。きっと、母も私と同じくらい涙を流しているのだ
ろうと想像する。すると、もっと胸が詰まり、苦しくなる。今、この手記を書き
ながら、母を思い涙が止まらない。
誰でもいい、母の行方を教えてほしい。あの日以来、母のことを一時も忘れた
ことはない。私と母が拉致されたことは事実なのだ。それなのに、どうして母だ
けが行方知れずのままなのだ。今この瞬間も母のことを考えるといたたまれない。
何かしなくてはいけないという衝動に駆られる。小さいことかも知れないが、こ
こ数年ずっと地元での署名活動に参加してきた。佐渡という限られた地域の中で
の活動ではあるが、快く署名してくれる人がたくさんいる。また、この署名活動
のために忙しい中でも協力してくれる、地元の救う会の会員のみんなにも本当に
感謝している。
そして最後に、これだけは言いたい。政府をはじめとする日本人みんなが力を
合わせ、未だ帰れない拉致被害者を必ず取り返してほしい。最後の一人までも残
らず日本の地を踏ませてほしい。私が24年間思い続けたことは、ただ一つだけ、
「絶対、生きて日本に帰る。絶対、諦めない」との執念だ。同じ思いを抱いてい
る被害者がたくさんいるはずだ。「今日こそは、私を助けに来てくれる」と信じ
て待ち続けている人がいるはずだ。だから、すぐにでも助けに行ってほしい。本
当にもう残された時間が僅かになった人もいるはずだ。
拉致されて以来、毎日泣き暮らしている人がどれほどいるだろうか。北にいる
以上、個人の力では何も出来ないのだ。いつまで待っても、誰も助けに来てくれ
ない。自分を探してくれる人は誰もいないのだろうかと、諦めてしまった人もい
るかも知れない。気の狂いそうな毎日を過ごしている人のことを考えると、当時
の自分と重なってしまう。声にならない声を拾い上げてほしい。それから、北に
いる拉致被害者の人たちに言いたい。「決して諦めないこと。信じて待っていれ
ば、必ずあなた方を助けに行く人がいるはず。だから、もう少し耐えてください」
と。
今、私が日本で生活できているのは、まさに、日本政府をはじめとする日本国
民みなさんの力の結集のおかげだと思っています。少しでも恩返しが出来ればと
思い、様々な活動をしています。帰国できずにいる被害者のみなさんのことを思
い、そしてまた、この拉致問題を風化させないため、今年は特に署名活動をはじ
めとし、国民集会、県民集会、地元での講演活動など積極的に行っています。一
人の力は知れたものですが、これがたくさん集まれば大きな力となります。絶対、
みなさんは帰って来れます。必ず助けに行くから、諦めることだけはしないでく
ださい。
拉致問題が全面解決するまで、活動は続きます。国民の皆様、これからもご支
援、ご協力をよろしくお願いします。
曽我ひとみ
以上
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■野田首相にメール・葉書を
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葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 野田佳彦殿
■救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
曽我ひとみさんが9月20日、帰国して10年を振り返る手記を公表した。曽
我さんは、1978年8月12日に母ミヨシさんとともに佐渡から拉致された。
そして2002年10月15日に蓮池さん夫妻、地村さん夫妻と共に24年ぶり
に帰国した。
手記では、「この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけ
が日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる」
とある。帰国した拉致被害者は、すべての拉致被害者が帰国しないと、「申し訳
なさ」が募り、本当の意味での幸せにはなれない。
A4で9枚の紙に、家族、関係者、友人等多くの人に迎えられたこと、34年
間日本語を使っていなかったため相当期間日本語が出てこなかった苦しさ、家族
の帰国まで日本で待つことの決心、初期癌の発見と手術。もし北朝鮮に戻ってい
たら治療ができただろうか。帰国後、夫の入院中の父の入院、保健師の仕事、家
族の帰国、4人一緒なら乗り越えていけると思ったこと、父の死、夫の家族との
面会、など予測できないことが次々に起こった日々が綴られている。そして未だ
拉致された母に会えない苦しみ、拉致被害者に対しては「決して諦めないこと」
を訴えた。
すべての拉致被害者が帰国しなければ、帰国した被害者の心も痛み続けている
ことを改めて感じさせる曽我さんの手記。一日も早い解決が必要だ。
■10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記(全文)
曽我ひとみさんが9月20日、帰国して10年を振り返る手記を公表した。曽
我さんは、1978年8月12日に母ミヨシさんとともに佐渡から拉致された。
そして2002年10月15日に蓮池さん夫妻、地村さん夫妻と共に24年ぶり
に帰国した。
手記では、「この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけ
が日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる」
とある。帰国した拉致被害者は、すべての拉致被害者が帰国しないと、「申し訳
なさ」が募り、本当の意味での幸せにはなれない。
A4で9枚の紙に、家族、関係者、友人等多くの人に迎えられたこと、34年
間日本語を使っていなかったため相当期間日本語が出てこなかった苦しさ、家族
の帰国まで日本で待つことの決心、初期癌の発見と手術。もし北朝鮮に戻ってい
たら治療ができただろうか。帰国後、夫の入院中の父の入院、保健師の仕事、家
族の帰国、4人一緒なら乗り越えていけると思ったこと、父の死、夫の家族との
面会、など予測できないことが次々に起こった日々が綴られている。そして未だ
拉致された母に会えない苦しみ、拉致被害者に対しては「決して諦めないこと」
を訴えた。
すべての拉致被害者が帰国しなければ、帰国した被害者の心も痛み続けている
ことを改めて感じさせる曽我さんの手記。一日も早い解決が必要だ。
■10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記
時の流れ ―10年を振り返って―
「もう10年になるんだなあ」
年が明けて平成24年になった。その日から何度この言葉をつぶやいたことか。
その度に色んなことが頭の中を駆け巡る。思い出したくないことは鮮明に浮かん
でくる。覚えていたいことは、時間の経過とともにぼんやりとしたものになって
くる。あれやこれやと考えているといたたまれない気持ちになり、同時に胸が締
め付けられじっとしていられなくなる。この10年という時間の流れの速さ、長
さを考えると、自分だけが日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで
頭の中がいっぱいになる。正直なところ、私達5人が帰国し、拉致問題が大きく
クローズアップされたことにより、他の拉致被害者が続々と帰国してくるものと
思っていた。しかしこの10年、これといった成果は見られなかった。拉致被害
者を待つ家族の気持ちを考えると、一日一日がとても貴重な時間であり、もう待
てないところまで来ている。一体どうすれば解決できるのだろうか。誰も答えを
引き出すことなど出来ないのではないだろうか。それほど難しい問題なのだと思
う。でも、今の状態がずっと続くことは許されない。何か解決の糸口が見つかっ
てほしいと願うばかりだ。ここで、この10年を振り返ってみる。
何から書けばいいだろう。ちょっと思い出してみる。そう、やっぱり最初に思
い出すのは、帰国できた最大の要因となった日本の調査団との面会だろう。平成
14年9月17日、日本の調査団がやってきた。実は、党の幹部から事前に調査
団が来ることを告げられていた。ただ、今までだまされ続けてきたので、本当に
面会できるのか半信半疑だった。私は、党の幹部と指導員と同伴で、面会会場へ
行った。24年間、待ちに待った瞬間が本当にやってきた。夢に見たことが現実
となったのだ。この時の嬉しさをどう表現すればいいのか分からないほど舞い上
がっていた。
当時はすっかり日本語を話せなくなっていたので、通訳を介してのやりとりが
あった。心の中では、自分が「曽我ひとみ」であることを日本語で叫んでいた。
一つ一つの質問がもどかしい。早く私を「曽我ひとみ」だと認めてほしいと気持
ちが焦っていた。どのくらいの時間が経っただろう。調査団の人達が「曽我ひと
み」本人であると認めてくれたのだ。その時の嬉しさは今も忘れていない。ただ、
残念なこともあった。その面接の時、一枚の写真を見せられた。「誰か分かりま
すか?」と開かれ、「私です」と答えたら相手は不思議そうな顔をしていた。思
いつく人物がいないので、ずっと考え込んでいたら「あなたのお母さんですよ」
と言われた。あんなにも会いたくて会いたくて思い続けた母の顔を忘れていたの
だ。確かに初めて見る写真ではあったが、母の顔を忘れているなんて想像もして
いなかったのだ。あの時の何とも表現し難い衝撃は、その後の幾多の出来事で味
わった衝撃と比較できないほどであった。全身の力が一気に抜けてしまったこと
を今も覚えている。
その後、日本へ一時帰国することになった。娘たちは、「日本に帰るのに、日
本語話せるの?」「少しでも日本語が話せた方がいいよ。今から少しでもいいか
ら日本語の勉強しなさいよ」と、あれやこれやと世話をやいてくれた。娘たちの
気遣いがとても嬉しかった。とはいえ、「一夜漬けの勉強でどうなるものでもな
い」「日本に行けば何とかなるさ」と、今思えば、かなり肝が据わっていたよう
だ。出発の日、空港まで夫と娘たちが見送りに来てくれた。「いよいよ、日本へ
帰れる」。心の中では、飛び上がるほどの嬉しさがこみ上げていた。でも半面、
不安もあった。佐渡の家族は、親戚や友人は、私を覚えているだろうか?。私を
受け入れてくれるだろうか?。いろんな思いが頭をぐるぐる駆け巡っていた。つ
いに飛び立った。
平成14年10月15日、24年ぶりに帰ってくることができた日本。着陸態
勢に入った。窓から見える空港の景色。なぜか大勢の人達が見える。私たちの他
に誰か有名人でも出迎えにきているのだろうか。軽い気持ちでいた。ところが、
タラップへ出てきたらびっくりした。あの窓から見えた人達は、私達5人を出迎
えるため集まっていたのだった。日本では、拉致問題がとてつもなく大きな出来
事なのだと、このとき初めて知った。ただ私自身は、自分の国へ帰ってきただけ
なのに、という単純な思いしかなかった。出迎えの人達は口々に「お帰りなさい」
と言っている。知らない人達ばかりだった。
必死に家族を探した。妹の姿が見えた。お互いに駆け寄り抱き合った。嬉しく
て涙が止まらない。でも、話が出来ない。いっぱい、いっぱい話したいことがあ
るのに、言葉が出てこない。もどかしくて、自分でもどうしたらいいのか分から
なくなっていた。会話もままならない状態でホテルへ着いた。
部屋に入って一息ついていたら、政府関係者が訪ねてきた。「この後、被害者
全員で会見があります。その場で一言でいいので、話をしてください」と言う。
「妹とさえまともに話ができないのに、一言でいいから何かを言えとは…」と途
方にくれた。必死に言葉を探した。「会いたかったです」の言葉が浮かんできた。
部屋の中で何度も何度も声を出して練習した。私にはやっとひねり出した日本語
だったのだ。会見場にいた人やテレビを見ていた人たちには、何か物足りないと
感じたかもしれないが、私には清水の舞台から飛び降りる気持ちで発した日本語
だったのだ。言った後、ドキドキした胸のつかえが一気に取れた気がした。会見
が終わればゆっくりできるかと思っていたが、なかなか一人になる時間を与えて
もらえなかった。東京滞在中は、家族会の人たちや政府関係者との面会が続き、
日本に帰ってきた感動を味わうどころではなかった。
10月17日、佐渡へ帰ってきた。新潟から飛行機で20分余りのフライトだっ
たが、窓から見える佐渡島は、何も変わっていないように見えた。島影が見えた
途端、胸が詰まり涙が自然にこぼれてきた。到着するまでの間、ずっと泣きっぱ
なしだった。マイクロバスに乗り込み、真野町(現・佐渡市)役場に向かった。
車窓から見える佐渡の風景は、私がいたころと随分変わっていた。道路は広く
なり全て舗装され、街灯もたくさんついている。家並みも整い、きれいな家がいっ
ぱいあった。自動車もたくさん走っていて、ここが本当に佐渡なのだろうかと目
を疑うような変化に驚いたことを思い出す。役場に着いた。玄関先で大勢の人達
が出迎えている。町長はじめ役場の職員、議員、そして同級生たち。同級生は、
みんなそれなりに年を取っていたが、一人ひとり誰なのか名前を言わなくても分
かった。ただ、相変わらず日本語が出ない。同級生の言葉にただ頷くしかなかっ
た。言葉を交わさなくても、みんなが私を忘れていなかったことがすごく嬉しかっ
た。ゆっくりすることもなく、四日町の集落センターへ。
挨拶もそこそこに、自宅へ向かった。マイクロを降りると父が足を引きずりな
がら駆け寄ってきた。私も小走りに駆け寄り抱き合って泣いた。ただ、謝ること
しかできなかった。死んだと思っていた娘が帰ってきたのだ。父も私の姿を見る
までは信じられない思いだったはずだ。お互い多くを語らなくても嬉しさが伝わっ
ていた。それにしても、本当に久しぶりの父の佐渡弁が耳に心地よく響いた。ほ
んの少しではあるが、日本語が甦ってきて、片言だけど話をすることができた。
親戚の人も近所の人も集まっていた。みんな泣いていた。温かく迎えてくれた
ことが本当に嬉しくて、「やっぱり故郷はいいなあ、帰ってきて良かった」と心
の中でつぶやいていた。でも、嬉しい半面、悲しい気持ちもあった。その場に母
の姿がないことだった。調査団の人に、「佐渡にお母さんはいません」と言われ
ていたが、信じることができないでいた。タラップを降りるときも、もしかして
迎えにきてくれているかもしれないと僅かな望みを抱いていた。だけど、やっぱ
り母はどこにもいなかった。
辛い現実をつきつけられた思いと、それを受け入れなければならないと自分に
言い聞かせながら、やっぱり否定する自分がいて、その狭間での葛藤は苦しいだ
けだった。その夜は、疲れているはずなのだが、興奮していてなかなか寝付けな
かったことを思い出す。それにしても、次の日からあんなに忙しくなるなど想像
もしていなかったので、今思えばよくあれだけの日程をこなしてきたものだと感
心している。
18日、墓参りに行き、午後からは高校の卒業証書授与式に出席した。卒業ま
で半年あまりとなった年に拉致されたのだ。心残りとなっていた問題の一つが解
決された喜びがあった。半面、本音を言うと40歳を過ぎて賞状を受け取るのは
恥ずかしかった。でも、私一人のために式を用意してくれたことが嬉しく、みん
なと同じ卒業生になれたことも最大の喜びだった。関係者のみんなに心から感謝
した。
式の後は同級会があり、24年ぶりに同級生たちに再会した。みんながそれぞ
れの24年を過ごしたんだなぁと、一人一人の顔や姿を見て思った。それは、2
1日参加した小中学校の同級会でも同様の感想であった。中には、「あの人誰だっ
け?」と、名前と顔の一致しない同級生もいた。月日の流れは人の記憶を曖昧に
するものだと実感した。でも、やっぱり友達というのは良い。会えば一瞬で過去
の自分に戻してくれる。友達の存在は、過去も現在も私の宝だと思っている。
そうそう、23日の佐渡病院訪問でも嬉しいことがあった。24年間、被るこ
とがなかったナースキャップを着けてもらったことだ。自分の一生の仕事だと思
い、勤務し始めた矢先の出来事だっただけに、中途半端で投げ出したことに責任
を感じていたが、ナースキャップを頭に載せられた時は、看護師に戻った気分に
なり嬉しかった。
日本滞在中は、毎日忙しかったが充実していた。北へ帰る時間が迫れば迫るほ
ど、故郷への思い、家族、親せき、友人たちへの思いが捨てきれずに心が痛んだ。
かといって、北にいる夫や娘たちへの思いも募る。両方の国にいる愛する人たち
の狭間で体が二つあったらどんなにいいかと何度も思った。
そんな折、「拉致被害者5人を北へ帰さない」との政府方針が発表となった。
一時帰国と思っていた私は、着々と帰る支度をしていたのだ。正直ショックだっ
た。「北に逆らえば、家族はどうなるのか?」。そのことばかりが頭の中をぐる
ぐる駆け巡る。24年間、逆らうことなく言うがままにしていたから、私は生き
延びてこられたのだと確信していた。それなのに、北へ逆らえと日本政府は言う
のだ。私の返事次第で家族の処遇が決まると思い込んでいた私は、どうすること
も出来ず悩む毎日だった。
返事を出せないまま数日が過ぎた時のことだった。日本滞在中に健康診断でも
受けたらとのアドバイスもあり、特に悪いところはなかったのだが、せっかくな
ので人間ドックを受けることにした。その時、先生から「ちょっと肺に気になる
ものがあります。まだほんの小さな粒程度ですが、もし時間が経って大きくなる
ようなら手術した方がいいと思います。まずは、1年くらい様子を見ましよう」
と言われた。
私は、すぐに「肺がん」だと確信した。なぜなら、北にいたときドイナ(同じ
建物に住んでいたルーマニア人拉致被害者)が肺がんで亡くなっていた。初期の
症状からずっと見ていた私には、肺に何かがあるというだけで、理解することが
できたのだ。精密検査をするため組織を取ったが、ほぼ間違いなく悪性だろうと
思われた。怖くなった。目の前に「死」が迫っていると感じた。だが、先生が
「ほんの初期ですから心配いらないですよ」と言ってくれたので安心できた。こ
れが北朝鮮だったら、私は確実に死んでいただろう。ドイナのように、死ぬ直前
まで故郷を思い、二度と故郷の土を踏むことが叶わなかっただろう。未練を残し
たまま死ぬことを考えたら、日本に帰れたことを感謝した。
数日後、いろんな悩みを抱えた状態で、北へ帰るか日本に留まるかの結論を出
す時がきた。これまでに、たくさんの人たちが私を説得しに来た。一人で結論を
出すのが怖かった。家族の安全が保障されるならすぐにでも返事をしただろう。
でも確信のないものに返事はできなかったのだ。両方にいる家族への思い、自分
の病気のこと、日本政府を信じてもいいのか、眠れない日々を送りやっとの思い
で結論を出した。「日本に留まり、家族を待つ」と決めた。結局、帰国した5人
ともに同じ結論を出したのだった。
5人が日本に残るということは、私にとって少しでも励みになることだった。
でも、私以外は夫婦で帰国している。何かと相談できる相手がいるということだ。
私には何でも話せる相手がいない。これは、家族を取り戻すまでの間、かなりこ
たえた。毎日どこかへ誰かと出かける。この時間は気を紛らすことができたが、
帰宅した後は何とも言えない孤独感に見舞われた。「本当にこの選択でよかった
のか?」「夫や娘たちは、本当に無事でいるのだろうか?」と心配する毎日だっ
た。ただ、時間の経過とともに、いろいろと世話を焼いてくれる人が現れ、北の
家族の情報が嬉しくない形で入ってくることもあった。今思い出しても、あの時
が一番苦しい時だったように思う。
辛い日々を過ごしながら、手術の日が迫っていた。実は、私の病気は非公表で
あったため、当時の真野町役場に箝口令が敷かれていた。マスコミの目を盗み、
ひそかに東京へ。誰にも気づかれないよう偽装工作をし、入院することに成功し
た。その後、手術も無事終わりこのまま秘密を維持したまま佐渡で何食わぬ顔を
して普段通りの生活に戻ればいいのだと考えていた。
ところがこの秘密が、あっという間にバレてしまうのである。当時の関係者が
マスコミに話してしまったのだ。さあ、この話を聞いたマスコミは怒り心頭であ
る。役場の支援室とマスコミとの信頼関係はぶち壊しとなり、当時の支援室長は
窮地に立たされ、結局、町長筆頭にマスコミに謝罪することになってしまった。
私の知らないところで、大変な事態となっていたのだ。後日、この話を聞いたと
きはすでに笑い話となっていたので安心して聞くことができた。当時の支援室長
の人柄もあったのだが、私に心配の種を残さないようにしてくれていたのだなと
感じた。私にとっては、とても心強い味方であった。今ももちろんのこと、これ
から先も感謝の気持ちを忘れることはないだろう。
佐渡での生活を始めてから、何かと忙しい日々を送っていたある時、「旦那
さんや娘さんたちが帰ってきたら、佐渡では車がないと不便だよ。免許取ったら
どう?」と勧められた。家族が帰ってきたら自分が生活の中心となる。確かにそ
うだった。当時は、どこへ行くにも送迎付きだったが、正直自分が出かけたい時
に勝手に出かけることは出来なかった。いつまでも人を頼ってばかりではいけな
いと思い、自動車学校へ行くことを決めた。
免許取得までにはスケジュールを調整したり手術があったりと少し時間はかかっ
たが、免許証を手にすることができた。嬉しかった。夫や子供たちが帰ってきた
ら、買い物はもちろんのこと、どこへ連れて行こうかと考えるのが楽しかった。
早く運転が上手になることと、佐渡の道路になれるために、頻繁に車で出かける
ようにした。今だから暴露するが、初心者マークは4?5年つけたままにしてお
いた。運転に自信がなかったことから、対向車や後ろについた運転者が気をつけ
てくれるだろうと思ったのだ。おかげで大きな事故もなく、(車の擦り傷、打撲
はあったが)現在まで運転できている。
そんなある日、役場から「一通りのスケジュールも終了したこと、佐渡での生
活にもだいぶ慣れてきたことから、少し仕事でもしてみないか」と言われた。確
かに、今後についての見通しは立っていなかった。准看護師の資格だけでは、医
療現場に戻ることもできない。かといって、それ以外の仕事を経験したこともな
い。普通の会社員として働くにしても、24年のブランクが大きすぎてちゃんと
仕事をこなせる自信がなかった。
それでも何か仕事はしたいと思っていた。役場からは「役場で保健師の助手と
してどうか」とのことだったので了承した。一つ一つ丁寧に指導してくれた保健
師や職員の温かい対応に、仕事をするのが楽しいと感じるようになっていった。
そんな中、母を中心とする拉致被害者救出の大集会を島内で開催することとなっ
た。救う会全国協議会、家族会の主だった方たちが出席してくれた。また、国会
議員や議連、全国の救う会の会長など、本当にたくさんの人たちが参加してくれ
た。島民大集会をやってよかったと思った。母への思いは、この後まとめて書く
つもりでいるのでここでは触れない。
年が明けた平成16年、「今年こそは事態が進展し、家族が帰ってくるように」
と地元の神社へ初詣にいった。昨年も行ったが、何の動きもなかったのだ。頻繁
に日朝協議を行っているようではあったが、嬉しい知らせはなかった。毎日淡々
と仕事をした。仕事をしている時だけは、何も考えなくてよかったからだ。下手
に期待を持つと裏切られた時、立ち直るまでに時間がかかる。北にいた24年間
で数えきれないほど経験したのだ。だから期待は半分で毎日を過ごしていた。そ
んな時である。国から「小泉首相が、2回目の訪朝をする」とのニュースが飛び
込んできた。正直驚いたし、嬉しかった。家族を取り戻すという私たち被害者の
声を受け止め、行動に移そうとしていたのだ。政府の真剣に取り組む姿勢に、半
分の期待が、十分の期待に変わっていった。
8月23日、佐渡へ向かった。佐渡へ行くことが決まってから娘たちは、「佐
渡ってどんなところだ」とまたまた質問攻めだった。想像を巡らせていた佐渡を
実際の目で見ることとなった。佐渡に着き、市役所経由で病院へ直行した。初め
て見るじいちゃん、初めて見る孫、お互い戸惑っていた。言葉も通じないから、
私が通訳した。娘たちが覚えたての日本語で書いた見舞いの手紙を持参していた。
上手なことを言えない父であるが、孫からの手紙は嬉しかったようである。薬も
効いているおかげで、見た目はとても元気だった。相変わらずの佐渡弁に、娘た
ちは「初めて聞く言葉だ。あれが日本語か?」と違う国へ来たような感じがした
らしい。確かに、父の佐渡弁は独特であり、通訳が必要だった。父の言葉を標準
語に直したり、朝鮮語にしたりと通訳した私も頭の中が混乱しそうになった。
この時は、入院間際だったこと、病状も安定していたこともあり、3日間の滞
在で再び上京した。この一時帰郷ですっかり佐渡が気に入った娘たちは、すぐに
でも佐渡に住みたいといい、次はいつ戻れるのかと、しきりに聞いてきた。一日
も早く佐渡へ帰れるに越したことはないと、私自身も定住する日が来るのを楽し
みにしていた。
上京して間もなく夫はキャンプ座間へ出頭することとなった。これより米軍の
指揮下に置かれ、軍法会議に臨むこととなる。処遇が決定するまで時間があると
いうことで、日米関係者の許可を得て再び佐渡へ戻ることになった。約1か月余
りであったが、私も娘たちも充実した佐渡生活を送ることができた。父も私たち
が見舞いに来るのを楽しみに待つようになり、次の見舞いには「あれがほしい、
これが食べたい」と少しだけ甘えるようになった。でも、私には嬉しいことだっ
た。母と私がいなくなってからずっと一人で生きたのだから、これからは親孝行
しなくてはと思っていた。だから、少々のわがままも聞いてやろうと思っていた
からだ。そんな父も翌年2月に永眠した。
亡くなる間際まで、「今度は、母ちゃんが帰ってくる。飛行機に乗って帰って
くる」「母ちゃんが帰ってきたら、謝りたい」と口癖のように言っていた父の顔
を今でも忘れられない。結局、母とは永遠に会えないままこの世を去った。ただ、
私の家族に会わせることができたこと、最後まで父のそばにいられたことで、父
も少しは幸せを感じでくれただろうと思っている。
12月7日、念願だった家族揃っての佐渡入りとなった。この日から新しいス
タートを切ることになった。娘たちも将来のことを考え、進学することになった。
夫も家でじっとしているのが嫌だというので、就職先を探すことになった。
年が明けた平成17年、夫のお母さんに会いに行くことが決定した。90歳を
過ぎているが健在だと聞いていたからだ。「もし、北朝鮮を脱出することができ
たら、絶対会いに行くべきだ」と話していた。6月、家族全員でアメリカへ行っ
た。10日足らずではあったが、夫も母親に会えて嬉しそうであった。義母もま
た、40年以上行方不明となっていた息子に会えて顔をくしゃくしゃにして喜ん
でくれた。夫もまた親孝行をすることができたのだ。そんな姿を見て、母と重ね
合わせていた。「母にも私の家族を会わせてあげたい」とさらに思いを強くした。
この再会から3年後、義母は夫を含む息子、娘たちに看取られながら永眠した。
心配し続けた息子に会えたことで、肩の荷を下ろすことができたのだろうと思っ
ている。
アメリカから帰って来て、いつもの生活に戻った。日中は仕事に集中している
が、自宅に帰り一人になる時間ができると、決まって母のことを思い出すように
なった。義母の姿と重なるのだ。足腰が弱り、介助が必要となっているのではな
いか。寝たきりで不自由を感じているのではないか、と悪いことばかりが頭の中
をよぎる。その思いを打ち消すために、拉致される前の母の顔を思い浮かべる。
いつもにこにこと優しい笑顔で、私たち姉妹の面倒を見てくれた大好きな母の姿
だ。考えてみれば、19年間いつも傍らにいてくれた。こんなに長い間、離れ離
れになったことはなかったのだ。何でこうなってしまったのか。どうして私たち
母娘が拉致の標的になってしまったのか。どんなに考えても答えは出てこない。
日本に帰国して以来、ずっとこんな答えの出ない自問自答を繰り返している。
どこをどうしたら、こんな残酷な運命になるのか。時々、どうしようもなく大声
で叫びたくなる。「母を返して」「私の24年間を返して」と。でも、その度に
「過去は変えられない、元に戻すことはできないのだ」と、落ち込みながら頭を
冷やす。そしてまた、自分だけが帰国したことを責める。いつまでこんなことが
続くのだろう。終わりが見えない。
母と離れ離れになって間もなく34年になる。つい最近、母の夢を見た。ここ
数年、母は夢にも現れてくれなかったのだ。目が覚めると、胸がドキドキしてい
た。でも、母が元気な姿で現れたので、ホッとしたことを今でも鮮明に記憶して
いる。偶然にも私の誕生日だった。きっと、私に「おめでとう」を言いたくて現
れたのだろうと良い方に考えている。
拉致される前の母の姿だった。何も変わっていなかった。「母ちゃん、夢に出
てきてくれて、ありがとう」「私は元気だから、心配しないでね」「母ちゃんは、
元気にしているの?どこか悪いとこはないの?」「また、夢に出てきてくれる?」
「本当は、会いたいよ」と私は語りかける。でも返事はない。母の顔を思い出し
ながら、涙が自然とこぼれる。きっと、母も私と同じくらい涙を流しているのだ
ろうと想像する。すると、もっと胸が詰まり、苦しくなる。今、この手記を書き
ながら、母を思い涙が止まらない。
誰でもいい、母の行方を教えてほしい。あの日以来、母のことを一時も忘れた
ことはない。私と母が拉致されたことは事実なのだ。それなのに、どうして母だ
けが行方知れずのままなのだ。今この瞬間も母のことを考えるといたたまれない。
何かしなくてはいけないという衝動に駆られる。小さいことかも知れないが、こ
こ数年ずっと地元での署名活動に参加してきた。佐渡という限られた地域の中で
の活動ではあるが、快く署名してくれる人がたくさんいる。また、この署名活動
のために忙しい中でも協力してくれる、地元の救う会の会員のみんなにも本当に
感謝している。
そして最後に、これだけは言いたい。政府をはじめとする日本人みんなが力を
合わせ、未だ帰れない拉致被害者を必ず取り返してほしい。最後の一人までも残
らず日本の地を踏ませてほしい。私が24年間思い続けたことは、ただ一つだけ、
「絶対、生きて日本に帰る。絶対、諦めない」との執念だ。同じ思いを抱いてい
る被害者がたくさんいるはずだ。「今日こそは、私を助けに来てくれる」と信じ
て待ち続けている人がいるはずだ。だから、すぐにでも助けに行ってほしい。本
当にもう残された時間が僅かになった人もいるはずだ。
拉致されて以来、毎日泣き暮らしている人がどれほどいるだろうか。北にいる
以上、個人の力では何も出来ないのだ。いつまで待っても、誰も助けに来てくれ
ない。自分を探してくれる人は誰もいないのだろうかと、諦めてしまった人もい
るかも知れない。気の狂いそうな毎日を過ごしている人のことを考えると、当時
の自分と重なってしまう。声にならない声を拾い上げてほしい。それから、北に
いる拉致被害者の人たちに言いたい。「決して諦めないこと。信じて待っていれ
ば、必ずあなた方を助けに行く人がいるはず。だから、もう少し耐えてください」
と。
今、私が日本で生活できているのは、まさに、日本政府をはじめとする日本国
民みなさんの力の結集のおかげだと思っています。少しでも恩返しが出来ればと
思い、様々な活動をしています。帰国できずにいる被害者のみなさんのことを思
い、そしてまた、この拉致問題を風化させないため、今年は特に署名活動をはじ
めとし、国民集会、県民集会、地元での講演活動など積極的に行っています。一
人の力は知れたものですが、これがたくさん集まれば大きな力となります。絶対、
みなさんは帰って来れます。必ず助けに行くから、諦めることだけはしないでく
ださい。
拉致問題が全面解決するまで、活動は続きます。国民の皆様、これからもご支
援、ご協力をよろしくお願いします。
曽我ひとみ
以上
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発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
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担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
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