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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

タイ人拉致被害者アノーチャーさんの経歴と拉致の経緯(2005/12/24)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2005.12.24-2)

■タイ人拉致被害者アノーチャーさんの経歴と拉致の経緯

 下記は、タイ・チェンマイの海老原智治氏(救う会・タイ連絡調査委員)がア
ノーチャーさんの兄・スカム・パンジョイ氏らに直接面接し、聞き取りを行い、
整理したタイ人拉致被害者アノーチャーさんの経歴と拉致の経緯の記録である。

(1)基礎的個人情報
1.姓: パンジョイ
2.名: アノーチャー
3.旧名: ブアパー(1977年[仏暦2520年])4月20日にアノーチャーに
改名)
4.ニックネーム: イット
5.生年月日:1954年(仏暦2497年)7月12日
6.実家住所:タイ国チェンマイ県サンカンペーン郡ファイサーイ村2区127/1
7.居住経歴:チェンマイ(サンカンペーン郡の実家)・バンコク。他に北部タ
イ他県で短期のたばこ乾燥工場住み込み労働
8.失踪年: 1978年(仏暦2521年)5月[23歳]

(2)家族構成(アノーチャーさんがバンコクにいた当時までに出生していた人。
姓はすべて「パンジョイ」。年齢は2005年[仏暦2548年]12月現在):
1.父: ソム (1911年[2454]5月生・2005年94歳で死去)
2.母: ノイ (1913年[2456]5月生・スカム幼少時に死去)
3.長子(長女): ブンユアン (1935年[2478]5月生・1969年34
歳で死去)
4.第2子(長男): スカム (1946年[2489]1月11日生)[59歳]
5.第3子(次女): アノーチャー (1954年[2497]7月12日)[51歳]
6.義姉(スカムの妻):トーン (1946年[2489]生)[59歳]
7.甥(スカムの長子):バンジョン (1969年[2512]5月28日生)[36
歳]
8.甥(スカムの次子):ポンサック (1974年[2517]9月12日生)[31
歳]

(3)家 業:
農業(田・果樹・葉たばこ)

(4)アノーチャーさんの性格:
 やさしくて親切気がある。友人が多い。さまざまなものごとに関心がある。知
りたがり。度胸がある。他人を恐れない。化粧したりして身なりを綺麗にするの
を大事にする。移動や旅行が好き。

(5)アノーチャーさんの主な個人史:
1. 1954年(仏暦2497年)7月12日[0歳]
チェンマイ県サンカンペーン郡ファイサーイ村で出生。ブアパーと名づける。

2. 1961年(仏暦2504年)[7歳]
ノーンセ寺小学校(チェンマイ県サンカンペーン郡ファイサーイ村)入学

3. 1964年(仏暦2507年)[10歳]
同小学校前期課程卒業 。
※(作成者注釈)当時のタイの小学校は前期1?4年生・後期5?7年生の7年課
程で、義務教育は前期のみであった。
4. 1964?1973(仏暦2507-2516年)[10?19歳]
 家業である農業の手伝い。(田・果樹・葉たばこ)
 同時にたばこ乾燥工場の雇われ人として北部タイ各地の工場に行く。(チェン
マイ県のインタノン社・テーパウォン社、ランパーン県ガーオ郡、チェンラーイ
県ウィアンパーパオ郡)

 その後たばこ乾燥工場へ行くのは体力的にきついのでやめ、専ら家業の手伝い。

 その後さらに、チェンマイ市内のチェンマイ職業技術学校に通い美容を習う。
さまざまな物品(耕運機・精米機等の農機具等)の販売の仕事を行う。

5. 1973-1978年(仏暦2516?2521年)[19?24歳]
 1973年(仏暦2516年)[19歳]に村の同世代の女2~3人と共にバンコクへ行
き、当地で仕事を見つけて働き始める。出発前は仕事先の当ては全くなかったが、
まず上京してあちらに着いてから仕事を探し、無事見つかった。しかし、仕事を
始め落ち着いた後も実家には仕事が何で職場がどことははっきり言わなかった。
家族もそれ以上尋ねなかった。

 バンコクの連絡先として、あちらで諸事お世話になっており個人的に敬ってい
る、ナルモンさんという名の美容院の女主人の住所(市内のペッブリー・タット
マイ通りミースック小路[当時])を連絡してきた。実家からの手紙はその住所
に送って連絡した。ナルモンさんはニックネームをジェ・ティアンといい、現在
もバンコクで健在で60歳前後になるはずだ。

 年に2?3回サンカンペーンの実家に帰ってきては、たくさんお土産を持って
きて家族親戚や近所に分けていた。大丸デパート(日系で当時バンコクの最高級
デパート。現在は廃業) の袋を抱えて来ることがあった。たいがい、同じ北部
タイ(チェンライ県・パヤオ県)出身の女友達を3?4人連れてきた。親しい友
人でローンさんという名のパヤオ県出身の人もやって来た。 

 父親に非常な愛情を持っていて親しくしており、サンカンペーンの実家に帰っ
てくると父とさまざまなことを話していた。しかし、他の家族や親類には個人的
なことはバンコクでの仕事や生活ぶりを含めてあまり話さなかった。

 この時期サンカンペーンの実家に住んでいたのは5人であった(父・スカム・
スカムの妻・甥[スカム長男]のバンジョン・甥[スカム次男]のポンサック)。
 家の月収は500?600バーツでしかなかった。

 アノーチャーは毎月実家の生活費としてバンコクから父親に仕送りをしてきた。
金額は1回に1,000?2,000バーツだった。バンコク銀行ペッブリー・タットマイ
支店(バンコク市内)から銀行送金で大金を送ってきたこともあった。現在も実
家に残る送金記録には、
(1)1977年(仏暦2520年)8月9日 11,000バーツ
(2)1977年(仏暦2520年)9月5日 24,000バーツ
がある(※この当時のタイの大卒公務員初任給が1,000バーツ程度であったと言
う)。

 住居登録証(※住居登録証とは日本の戸籍に相当するもので、本人確認の証明
書としても機能する。物理的な家屋を単位としてそこの居住者が登録されるので、
同一家屋に暮らしていればたとえ血縁関係がなくても住居登録証の記載を移すこ
とが可能である)の登録住所を二度移した。最初は1976年(仏暦2519)5月29日
[20歳]で、サンカンペーンの実家からバンコクのナルモンさんの所に移した。
同年11月3日[21歳]にまたサンカンペーンの実家に戻した。

 1977年(仏暦2520年)4月[22歳]に家族に「名前をブアパーからアノーチャー
に変えた」と言ってきた(※タイでは当時から現在まで改名・改姓が容易である。
変える人も多い)。理由は言わなかった。

6. 1978年(仏暦2521年)初(月は不明)[23歳]
 サンカンペーンの実家に帰省してきた。この帰郷が失踪前の最後であった。家
族親戚3?4人と食事をする席でスカムさんの妻(兄嫁)に次のように話した。

 「これまで3回外国(アノーチャーさんはどこの国とは言わなかった)に仕事
に行った。今度バンコクに戻ったらマカオに行く予定だ。これが外国で仕事をす
る最後で、これが終わればもう行かない。その後はずっとバンコクで仕事をしな
がら時々チェンマイ(実家)と行き来をする。それまで父の面倒をよろしく頼む」
 バンコクへ戻った後、連絡がなかった。それから現在まで連絡がない。

7. 1978年(仏暦2521年)11月[24歳]
 友人のローンさん[女]からサンカンペーンの実家に手紙が届いた。この人は
バンコクでアノーチャーさんと同じ職場にいる親しい友人で、北部タイのパヤオ
県出身の人である。アノーチャーさんと一緒に数度サンカンペーンの実家を訪ね
たことがあって、実家の家族とも顔見知りであった。  

この手紙には次のように記してあった。
「お父さんとスカムさん、私(ローン)と話すためにバンコクのナルモンさんの
お宅まで来て下さい。」

 父とスカムさんがバンコクのナルモンさんの家へ行って会うと、ローンさんが
次のように話した。

「私とアノーチャーさんはマカオへ仕事へ行った。1978年(仏暦2521年)5月21
日、アノーチャーさんはマカオで姿が見えなくなった。失踪するこの日の昼、ア
ノーチャーさんは友人(この友人が誰かはその時ローンさんはスカムさんに伝え
なかった)と昼食を食べに行き『もし私が2?3時間姿が見えなくなったら警察
に届けてくれ』と伝えた。

 私はその時はアノーチャーさんが本当に失踪したとは思わなかったので、警察
にも届けなかったし、サンカンペーンの家にも知らせる気にならなかった。しか
し、いなくなって6ヶ月が経ったので本当に行方が分からなくなったに違いない
と思い、今こうしてお知らせしている。しかし、ご実家がアノーチャーさんがい
なくなったことを今こうして知ってどうしたらよいのかは私にも分からない。探
すことも出来ないだろう。いつか帰ってくるのを待つしかないだろう。」

 バンコク滞在中の別の日、お父さんとスカムさんが、ローンさんとローンさん
の友人の女性[名前は知らない]と共に4人でサヤームスクエア(バンコクの繁
華街の一つ)で食事をした。食事中に、ローンさんと知り合いという男性が店の
前を通りかかり一緒に話すことになった。この男性は4人がアノーチャーさん失
踪の件を話しているのを知ると、次のように言った。

「アノーチャーさんがいなくなったのと近い時間に、香港人も2人いなくなった。
一人は香港の宝石店オーナーの娘だ。もう一人は恐らくその店の従業員のようだ。」
それをなぜ知ったのかは、
「マカオではこの3人の行方不明者の尋ね人の貼り紙が、写真入りで町中の電柱
に張ってあるからだ」
と言った。(以 上)

(6)面接記録
面接日:2005年12月4日(日)
面接者:海老原智治
面接対象:(1)スカム・パンジョイ(アノーチャーさんの兄)
(2)トーン・パンジョイ(同じく義姉・兄の妻)
(3)バンジョン・パンジョイ(同じく甥・上記兄の第2子)
方 法:上記お三方に同時に面接。
場 所:上記お三方の自宅(アノーチャーさんの実家)
    タイ国チェンマイ県サンカンペーン郡ファイサーイ村2区127

(7)本記録の作成者と作成日
作成者:海老原智治
作成日:2005年12月14日

■アノーチャーさん個人史年表
1954年(仏暦2497)7月12日 0歳 チェンマイ県サンカンペーン郡ファ
イサーイ村で出生。ブアパーと名づける。
1961-64年(仏暦2504-2507) 7-10歳 ノーンセ寺小学校(ファイサーイ村)
で小学校前期課程(1年?4年)[義務教育]卒業
1964-1973年(仏暦2507-2516)10-19歳 サンカンペーンの実家の田・果樹・
葉たばこの仕事に従事。北部タイ他県で葉たばこ乾燥工場の雇いに出る。チェン
マイ職業技術学校で美容を学ぶ。農機具等の販売を行う。
1973年(仏暦2516) 19歳 村の同世代の女2?3人とバンコクに働きに
行く。
1973-1978(仏暦2516-2521) 19-24歳 バンコクで働く。(この間3度外国
で働く)
1976年(仏暦2519)5月29日 20歳 住居登録証の登録住所をサンカンペー
ンの実家からバンコクのナルモンさんの住所に移す。
1976年(仏暦2519)11月3日 21歳 住居登録証の登録住所をサンカンペー
ンの実家に移す。
1977年(仏暦2520)4月 22歳 サンカンペーン郡役所でブアパーからアノー
チャーへ改名する。
1978年(仏暦2521)初 23歳 サンカンペーンの実家に最後に帰省して来る。
1978年(仏暦2521)5月21日 23歳 マカオで失踪する。
1978年(仏暦2521)11月 24歳 友人ローンさんの報告でマカオで失踪したこ
とをサンカンペーンの実家が知る。
2005年(仏暦2548)11月 51歳 ジェンキンスさんの著書の記述から北朝鮮に
拉致されて同国にいる可能性があるということを、タイ国内の新聞テレビの報道
でサンカンペーンの実家が知る。


 ※小泉首相宛、はがき・メールを!(〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内
閣総理大臣 小泉純一郎殿、首相官邸のホームページ=
http://www.kantei.go.jp/の右下の「ご意見募集」欄を利用)


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