拉致被害者崔銀姫(チェ・ウニ)さん死亡、外国人拉致を証言(2018/04/17)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2018.04.17)
昨日(4月16日)韓国の映画俳優で拉致被害者の崔銀姫さんが亡くなった。崔
さんは自身が1978年香港から北朝鮮に拉致され、86年、オーストリアで映画撮影
中に脱出した経験を持っている。やはり拉致被害者である映画監督申相玉氏と共
著の「闇からの谺―北朝鮮の内幕」(文春文庫)は、拉致問題をはじめとする北
朝鮮の実態を多く私たちに教えてくれた。
私(西岡力)は2006年、ソウルで、崔氏、申氏に面会したことがある。また、
同年12月の家族会・救う会・拉致議連主催国際会議のため、崔氏の自宅まで行っ
てマカオ人拉致被害者などについて詳しくインタビューした。崔氏の証言でマカ
オ人拉致被害者孔令●[貝2つの下に言](ホン・レンイン)さんの存在が明ら
かになった。
孔さんの家族らが崔氏への面会を望んだので救う会が斡旋してそれを実現させ
たこともあった。高齢のお父様がソウルを訪れ、崔氏から娘について食い入るよ
うに聴いていた姿も忘れられない。
崔銀姫氏のご冥福をお祈りする。
以下、2006年12月8日に、西岡が聞き取った崔氏の国際会議向けの証言を採録
する。
■拉致被害者崔銀姫(チェ・ウニ)さん死亡、証言を再録
外国人拉致に関する崔銀姫氏証言
2006年12月8日 ソウル 西岡力救う会副会長が聴取・翻訳
◆日本人拉致被害者について
私は1978年1月に北朝鮮に拉致され、1986年3月に脱出し米国に亡命
しました。
北朝鮮にいたとき、いわゆる招待所というところで5年間、洗脳教育を受けま
した。そこにいた間、理髪師のおじさんから日本人女性がある招待所にいるとい
う話を聞いて、とてもうれしかったです。
日本の雑誌、「主婦の友」の付録をその理髪師のおじさんを通じて1ヶ月間、
借りて読みました。あとで返しましたが、その日本人女性が何をしているのかと
たずねたところ、日本語を教えている、日本語の先生をしていると聞きました。
そこでの生活とは、お互いに隣の家を行き来できず、ばれてしまえば大変なこ
とになるのでそんなことはできないのですが、私とその日本女性が住んでいたと
ころがとても遠く離れていたため、一度会いたかったのですが、残念なことに会
うことはできませんでした。
それは1979年、1980年ぐらいのことでした。私はそのとき、元興里の
招待所にいて、日本人女性は東北里にいました。私は、はじめ東北里にいて元興
里に行ったのですが、そのあとに日本人女性が東北里に来ているという話を聞き
ました。
◆中国人拉致被害者ミス孔との出会い
偶然、散歩していて、見たところ私と同じような良い服を着た女性と出会いま
した。しばらく見つめてみると北朝鮮女性ではないようで、中国女性のようでし
た。
近づいてお互いに、「どこから来たのか」、「自分はマカオから来た」、「そ
うですか」などと話しました。道で長く話を交わすことはできません。もし見つ
かると大変だからです。そこで、明日もう一回昼ご飯のときに会おうという約束
をして別れました。
昼食を食べたあとには必ず、散歩することになっていました。消化がよくでき
ないからでした。そこで、ある場所で会おうと約束して、その日は別れて、次の
日に会って、それからほとんど毎日、秘密で会いました。
それで、ミス孔がマカオからどのように拉致されてきたのかという経路を詳し
く聞くことができました。またミス孔も、私が香港で拉致されたときに新聞、雑
誌にたくさん出たため、私という人間を知っていたのです。本当の姉妹のように
秘密で会い、自分の過去の話もしました。
(崔先生が先に拉致され、ミス孔があとから拉致されたから、崔先生の拉致事件
のニュースを知っていたのですね)
はいそうです。
そのようにお互いに慰め合っていたのですが、私が元興里に行くことになった
ために、別れることになりました。
ミス孔と会っていたのは東北里です。79年から80年ころです。
別れたあとのミス孔の消息は知りません。
◆ミス孔の拉致の経緯
ミス孔は宝石店で働き、副業で観光案内をしていました。美男子の青年二人が
宝石も買ってくれたりして知り合いになったといいます。
よい顧客ですから親しくなりました。それで観光案内をしてくれと頼まれて、
ボートに乗ったところ、そこにもう一人の女性も乗っていました。ミス孔は観光
案内だからと疑いもせずにボートに乗りました。
ところが、観光案内のために乗ったのにボートがおかしな方向に向かっていく
ので当惑してどこに行くのかとききましたが、そのまま海側に行き、大きな船に
乗せられて連れてこられたというのです。
もう一人の女性は社会経験のある女性で、10歳上でした。そのときミス孔は
19か20歳で、若くて、怖くて震えてばかりいましたが、もう一人の女性は、
「なぜ私たちを連れて行くのか」と激しく抗議をしたといいます。
(その女性もマカオ人ですか)
はい、マカオ女性です。キャバレーのようなところにいた女性のようだったと
いいます。はじめて偶然そこで知り合って、二人で拉致されたのです。
◆インドネシア大使館に逃げ込む
外国から連れられて来られたから、(平壌に)外国人だけが出入りできる商店
がありますが、その商店にときどき案内されたそうです。その機会に見てみると
インドネシア大使館があったので、そこに飛び込んだといいます。
はじめは助けてくれるといっていたが、一時間くらい過ぎてから、助けてあげ
られない、あなたたちは中国人で、国際関係があるので助けることは難しいとい
われ、ふたたび北朝鮮に引き渡されたそうです。
そのあと、食事で拷問をされました。あそこでは殴ったりするのではなく、食
べ物を使って拷問します。食事を少しだけにして、食べることのできないような
ひどいおかずを出す。そのように苦しめられていたとき、もう一人の女性が、
「こんなことするなら私たちを殺せ」と泣き叫びました。そのあと、彼女は別の
ところに連れていかれてしまった。
ミス孔が一人で東北里に残ったのです。ミス孔は頭がいいので、このままでは
だめだ、言葉が通じず、朝鮮語を学ばなければならないと考えて、朝鮮語を教え
て欲しいと申し出たところ、そうか、よく考えたといわれたそうです。中国語を
教え、朝鮮語を学んだ。私と会ったときには朝鮮語をある程度、できました。そ
れで意思が通じたのです。
最初、そのようなことがあったあとは、ご飯を少しだけ与えられ、私たちでも
食べられないくず野菜のようなものを少しだけ与えられ、そのように拷問された
といいます。それで怖くなって、このまま誰にも知られずに死んだらあまりにも
口惜しいと考えて、言葉を教えてくれといったのです。言葉を学びはじめてから
は、再び待遇がよくなったそうです。
◆ミス孔の家族と信仰
ミス孔から家族について聞きました。
もともと中国本土に住んでいて、お父さんは教師をしていました。お父さんは
中国本土にそのまま残り、お母さんと弟と3人でマカオに来たといいます。
お母さんが針仕事をしながら自分たち2人の兄弟を学校に通わせてくれました。
ミス孔は高校卒業後に進学せず、弟を大学で勉強させるために働きだしたところ、
このように拉致されたというのです。
ミス孔はカトリック信者でした。自分はカトリックを信じているから、姉さん
も一緒に信じようといいました。私は、こんなところでどうしてカトリックを信
じるのか、ここでは宗教は阿片だというのにどのようにして信じるのかとたずね
ました。
彼女は、自分が秘密で私に臨時に洗礼を授けることができるといって、二人で
山の中に入り、落ち葉がたくさん積み上がっているところに、首だけ出して入り
二人でお祈りをし、そこで彼女が洗礼を授けてくれました。そのとき私の洗礼名
をマリアンヌとつけてくれました。自分はマリアだと教えてくれました。
彼女は二人のMのイニシャルを入れた首飾りをプレゼントしてくれました。そ
の首飾りを私はいまも持っています。そのように、本当の姉妹よりも親しく過ご
しました。そのあと、私は米国に行ってから正式にカトリックに帰依しました。
(ミス孔のマリアという洗礼名はマカオの家族も知らず、教会で調べてもらって
分かったといいます)
そうでしたね。
私はいまでもミス孔についてお祈りを捧げています。健康だけでもよくいてく
れること、可能なら自由世界に出てきて父母と会う機会が与えられればよいと、
祈っています。
◆ミス孔との約束
(ミス孔は家族に会いたがっていたでしょう)
もちろんですよ。私たちはこんな約束までしました。なんとかしてここから脱
出しよう。二人のうちどちらが脱出しても、先に脱出した方が、世界にこの非人
道的な事件を告発しようと約束しました。
私が先に脱出したのですが、もちろん本には書きましたが、このように正式に
お話をする機会はなかったのでできませんでした。本当に今回、国際会議でこの
ようにお話しできることは幸いだと考えています。
ミス孔が1日でも早く自由世界に出てくる機会があればよいですし、健康でい
てくれることを願っています。
(今年3月にミス孔のお父さんと弟さんとお会いになりましたよね)
はい。ミス孔はお父さんとよく似ています。典型的な目が細い顔はお父さんに
そっくりです。
◆ヨルダン人について
ヨルダン人は直接会ったのではなく、窓から車両が通りすぎて騒がしいので眺
めてみると、遠くのほうで指導員と女性の二人が口げんかをして通りすぎるのが
見えました。あとで、ヨルダンから捕まえられてきた女性だと聞きました。
私は、主婦の友から編み物をたくさん学び、もともと編み物が好きだったので、
手編みでジャケットもつくり、帽子をつくりそれを着て出歩いたのです。彼女は
偶然その私を見た様子です。私はそんなふうにしか彼女を見ていないのですが、
彼女は私をしっかり見たようでした。
彼女の世話をしている人がきて、こちらの先生は毛糸の帽子をどこで買ったの
ですか、とてもよいものに見えると連絡が来ました。正式に行き来はできず、ば
れたら大変なことになるので世話をする人たちも普通は怖くてそんなことは取り
次がないのですが、あまりにも頼んだので、私のところに来てそんな話をしたの
です。
そのあと、帽子を編んで贈り物しました。お返しにスカーフをプレゼントして
くれました。会うことはできませんでしたが、そのような交流がありました。
東北里でのできごとです。その女性がどこかに行ったあとミス孔が来ました。
◆金正日に結婚させてやるといわれたミス孔
(ミス孔は、いまどうしていると思いますか)
金国防委員長が嫁に出してやると言ったといいますから…。ミス孔もときどき
(金正日の)会食に招待されていました。直接、いいところに嫁に出してやると
いわれたといいますから、もしかしたらいい人と会って結婚して幸せに暮らして
いるかもしれません。
あるいは、あのときのように両親に会いたくて毎日泣いて暮らしているかもし
れません。彼女は胃腸がよくなかったです。悩みが多くてそうなったでしょう。
薬を飲んでいました。とにかく、健康でいてくれればよいのですが。
◆ヨルダン国王の訪朝
(ヨルダン女性との交流があったとき、ヨルダン国王が平壌を訪問していたの
ですね)
そうです。ヨルダン国王が来ました。私は内心、自国の女性が強制拉致されて
いるのに、外交的に国交を結ぶのとは別問題なのだ、嘆かわしいことだと考えま
した。
◆フランス人拉致被害者とマレーシア人拉致被害者について
(それ以外の拉致被害者とは会っていませんか)
会ってはいません。話でだけ伝え聞いています。
フランスからも拉致されたそうです。その女性は教授だそうでした。北朝鮮の
青年が結婚しようといって、新郎の国をはじめて訪問するという形で北朝鮮に来
たといいます。来てみると新郎はいなくなり、自分は監禁状態におかれたので、
強く抗議して国際的に訴訟すると言ったようです。インテリだからそこまで考え
たようでした。そのような話だけを聞いていて、そのあとどうなったかは分かり
ません。
(その北朝鮮青年は東洋の富豪の息子のふりをしたのでしょう)
そうです。
(マレーシア人拉致被害者についても聞いていらっしゃいますね)
話だけを聞いて、会ってはいません。
(マレーシア人夫婦がいるという話ですね)
はい、そうです。
(フランス人について聞いた時期はいつですか、やはり東北里ですか)
いつ拉致されたのかは分かりませんが、その話は80年、81年に聞きました。
(マレーシア夫婦については)
私が東北里にいたときです。
◆拉致被害者の待遇
待遇はよかったです。食事はコックが一人に一人付き、掃除などをする人と合
わせて2人がいました。一軒に(拉致被害者が)一人で暮らしました。生活は不
自由なく、よくしてくれました。けれども行動の自由はありませんでした。
◆国際会議参加者へのメッセージ
本当にひどいことです。
私はこのように自由世界に戻れ、故郷に帰り家族とも会えて、悪夢を見たよう
な気持ちですが、まだ、愛する家族を奪われ苦しんでいる人たちにどのような慰
めの言葉をおかけしたらよいかわかりません。
今回の会議が、いまだに北朝鮮にいる方々が一日でも早く自由世界に出てこら
れる契機になればよいと思います。
以上
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■安倍首相にメール・葉書を
首相官邸のホームページに「ご意見募集」があります。
下記をクリックして、ご意見を送ってください。
[PC]https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
[携帯]http://form1.kmail.kantei.go.jp/cgi-bin/k/iken/im/goiken.cgi
葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安倍晋三殿
■救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
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昨日(4月16日)韓国の映画俳優で拉致被害者の崔銀姫さんが亡くなった。崔
さんは自身が1978年香港から北朝鮮に拉致され、86年、オーストリアで映画撮影
中に脱出した経験を持っている。やはり拉致被害者である映画監督申相玉氏と共
著の「闇からの谺―北朝鮮の内幕」(文春文庫)は、拉致問題をはじめとする北
朝鮮の実態を多く私たちに教えてくれた。
私(西岡力)は2006年、ソウルで、崔氏、申氏に面会したことがある。また、
同年12月の家族会・救う会・拉致議連主催国際会議のため、崔氏の自宅まで行っ
てマカオ人拉致被害者などについて詳しくインタビューした。崔氏の証言でマカ
オ人拉致被害者孔令●[貝2つの下に言](ホン・レンイン)さんの存在が明ら
かになった。
孔さんの家族らが崔氏への面会を望んだので救う会が斡旋してそれを実現させ
たこともあった。高齢のお父様がソウルを訪れ、崔氏から娘について食い入るよ
うに聴いていた姿も忘れられない。
崔銀姫氏のご冥福をお祈りする。
以下、2006年12月8日に、西岡が聞き取った崔氏の国際会議向けの証言を採録
する。
■拉致被害者崔銀姫(チェ・ウニ)さん死亡、証言を再録
外国人拉致に関する崔銀姫氏証言
2006年12月8日 ソウル 西岡力救う会副会長が聴取・翻訳
◆日本人拉致被害者について
私は1978年1月に北朝鮮に拉致され、1986年3月に脱出し米国に亡命
しました。
北朝鮮にいたとき、いわゆる招待所というところで5年間、洗脳教育を受けま
した。そこにいた間、理髪師のおじさんから日本人女性がある招待所にいるとい
う話を聞いて、とてもうれしかったです。
日本の雑誌、「主婦の友」の付録をその理髪師のおじさんを通じて1ヶ月間、
借りて読みました。あとで返しましたが、その日本人女性が何をしているのかと
たずねたところ、日本語を教えている、日本語の先生をしていると聞きました。
そこでの生活とは、お互いに隣の家を行き来できず、ばれてしまえば大変なこ
とになるのでそんなことはできないのですが、私とその日本女性が住んでいたと
ころがとても遠く離れていたため、一度会いたかったのですが、残念なことに会
うことはできませんでした。
それは1979年、1980年ぐらいのことでした。私はそのとき、元興里の
招待所にいて、日本人女性は東北里にいました。私は、はじめ東北里にいて元興
里に行ったのですが、そのあとに日本人女性が東北里に来ているという話を聞き
ました。
◆中国人拉致被害者ミス孔との出会い
偶然、散歩していて、見たところ私と同じような良い服を着た女性と出会いま
した。しばらく見つめてみると北朝鮮女性ではないようで、中国女性のようでし
た。
近づいてお互いに、「どこから来たのか」、「自分はマカオから来た」、「そ
うですか」などと話しました。道で長く話を交わすことはできません。もし見つ
かると大変だからです。そこで、明日もう一回昼ご飯のときに会おうという約束
をして別れました。
昼食を食べたあとには必ず、散歩することになっていました。消化がよくでき
ないからでした。そこで、ある場所で会おうと約束して、その日は別れて、次の
日に会って、それからほとんど毎日、秘密で会いました。
それで、ミス孔がマカオからどのように拉致されてきたのかという経路を詳し
く聞くことができました。またミス孔も、私が香港で拉致されたときに新聞、雑
誌にたくさん出たため、私という人間を知っていたのです。本当の姉妹のように
秘密で会い、自分の過去の話もしました。
(崔先生が先に拉致され、ミス孔があとから拉致されたから、崔先生の拉致事件
のニュースを知っていたのですね)
はいそうです。
そのようにお互いに慰め合っていたのですが、私が元興里に行くことになった
ために、別れることになりました。
ミス孔と会っていたのは東北里です。79年から80年ころです。
別れたあとのミス孔の消息は知りません。
◆ミス孔の拉致の経緯
ミス孔は宝石店で働き、副業で観光案内をしていました。美男子の青年二人が
宝石も買ってくれたりして知り合いになったといいます。
よい顧客ですから親しくなりました。それで観光案内をしてくれと頼まれて、
ボートに乗ったところ、そこにもう一人の女性も乗っていました。ミス孔は観光
案内だからと疑いもせずにボートに乗りました。
ところが、観光案内のために乗ったのにボートがおかしな方向に向かっていく
ので当惑してどこに行くのかとききましたが、そのまま海側に行き、大きな船に
乗せられて連れてこられたというのです。
もう一人の女性は社会経験のある女性で、10歳上でした。そのときミス孔は
19か20歳で、若くて、怖くて震えてばかりいましたが、もう一人の女性は、
「なぜ私たちを連れて行くのか」と激しく抗議をしたといいます。
(その女性もマカオ人ですか)
はい、マカオ女性です。キャバレーのようなところにいた女性のようだったと
いいます。はじめて偶然そこで知り合って、二人で拉致されたのです。
◆インドネシア大使館に逃げ込む
外国から連れられて来られたから、(平壌に)外国人だけが出入りできる商店
がありますが、その商店にときどき案内されたそうです。その機会に見てみると
インドネシア大使館があったので、そこに飛び込んだといいます。
はじめは助けてくれるといっていたが、一時間くらい過ぎてから、助けてあげ
られない、あなたたちは中国人で、国際関係があるので助けることは難しいとい
われ、ふたたび北朝鮮に引き渡されたそうです。
そのあと、食事で拷問をされました。あそこでは殴ったりするのではなく、食
べ物を使って拷問します。食事を少しだけにして、食べることのできないような
ひどいおかずを出す。そのように苦しめられていたとき、もう一人の女性が、
「こんなことするなら私たちを殺せ」と泣き叫びました。そのあと、彼女は別の
ところに連れていかれてしまった。
ミス孔が一人で東北里に残ったのです。ミス孔は頭がいいので、このままでは
だめだ、言葉が通じず、朝鮮語を学ばなければならないと考えて、朝鮮語を教え
て欲しいと申し出たところ、そうか、よく考えたといわれたそうです。中国語を
教え、朝鮮語を学んだ。私と会ったときには朝鮮語をある程度、できました。そ
れで意思が通じたのです。
最初、そのようなことがあったあとは、ご飯を少しだけ与えられ、私たちでも
食べられないくず野菜のようなものを少しだけ与えられ、そのように拷問された
といいます。それで怖くなって、このまま誰にも知られずに死んだらあまりにも
口惜しいと考えて、言葉を教えてくれといったのです。言葉を学びはじめてから
は、再び待遇がよくなったそうです。
◆ミス孔の家族と信仰
ミス孔から家族について聞きました。
もともと中国本土に住んでいて、お父さんは教師をしていました。お父さんは
中国本土にそのまま残り、お母さんと弟と3人でマカオに来たといいます。
お母さんが針仕事をしながら自分たち2人の兄弟を学校に通わせてくれました。
ミス孔は高校卒業後に進学せず、弟を大学で勉強させるために働きだしたところ、
このように拉致されたというのです。
ミス孔はカトリック信者でした。自分はカトリックを信じているから、姉さん
も一緒に信じようといいました。私は、こんなところでどうしてカトリックを信
じるのか、ここでは宗教は阿片だというのにどのようにして信じるのかとたずね
ました。
彼女は、自分が秘密で私に臨時に洗礼を授けることができるといって、二人で
山の中に入り、落ち葉がたくさん積み上がっているところに、首だけ出して入り
二人でお祈りをし、そこで彼女が洗礼を授けてくれました。そのとき私の洗礼名
をマリアンヌとつけてくれました。自分はマリアだと教えてくれました。
彼女は二人のMのイニシャルを入れた首飾りをプレゼントしてくれました。そ
の首飾りを私はいまも持っています。そのように、本当の姉妹よりも親しく過ご
しました。そのあと、私は米国に行ってから正式にカトリックに帰依しました。
(ミス孔のマリアという洗礼名はマカオの家族も知らず、教会で調べてもらって
分かったといいます)
そうでしたね。
私はいまでもミス孔についてお祈りを捧げています。健康だけでもよくいてく
れること、可能なら自由世界に出てきて父母と会う機会が与えられればよいと、
祈っています。
◆ミス孔との約束
(ミス孔は家族に会いたがっていたでしょう)
もちろんですよ。私たちはこんな約束までしました。なんとかしてここから脱
出しよう。二人のうちどちらが脱出しても、先に脱出した方が、世界にこの非人
道的な事件を告発しようと約束しました。
私が先に脱出したのですが、もちろん本には書きましたが、このように正式に
お話をする機会はなかったのでできませんでした。本当に今回、国際会議でこの
ようにお話しできることは幸いだと考えています。
ミス孔が1日でも早く自由世界に出てくる機会があればよいですし、健康でい
てくれることを願っています。
(今年3月にミス孔のお父さんと弟さんとお会いになりましたよね)
はい。ミス孔はお父さんとよく似ています。典型的な目が細い顔はお父さんに
そっくりです。
◆ヨルダン人について
ヨルダン人は直接会ったのではなく、窓から車両が通りすぎて騒がしいので眺
めてみると、遠くのほうで指導員と女性の二人が口げんかをして通りすぎるのが
見えました。あとで、ヨルダンから捕まえられてきた女性だと聞きました。
私は、主婦の友から編み物をたくさん学び、もともと編み物が好きだったので、
手編みでジャケットもつくり、帽子をつくりそれを着て出歩いたのです。彼女は
偶然その私を見た様子です。私はそんなふうにしか彼女を見ていないのですが、
彼女は私をしっかり見たようでした。
彼女の世話をしている人がきて、こちらの先生は毛糸の帽子をどこで買ったの
ですか、とてもよいものに見えると連絡が来ました。正式に行き来はできず、ば
れたら大変なことになるので世話をする人たちも普通は怖くてそんなことは取り
次がないのですが、あまりにも頼んだので、私のところに来てそんな話をしたの
です。
そのあと、帽子を編んで贈り物しました。お返しにスカーフをプレゼントして
くれました。会うことはできませんでしたが、そのような交流がありました。
東北里でのできごとです。その女性がどこかに行ったあとミス孔が来ました。
◆金正日に結婚させてやるといわれたミス孔
(ミス孔は、いまどうしていると思いますか)
金国防委員長が嫁に出してやると言ったといいますから…。ミス孔もときどき
(金正日の)会食に招待されていました。直接、いいところに嫁に出してやると
いわれたといいますから、もしかしたらいい人と会って結婚して幸せに暮らして
いるかもしれません。
あるいは、あのときのように両親に会いたくて毎日泣いて暮らしているかもし
れません。彼女は胃腸がよくなかったです。悩みが多くてそうなったでしょう。
薬を飲んでいました。とにかく、健康でいてくれればよいのですが。
◆ヨルダン国王の訪朝
(ヨルダン女性との交流があったとき、ヨルダン国王が平壌を訪問していたの
ですね)
そうです。ヨルダン国王が来ました。私は内心、自国の女性が強制拉致されて
いるのに、外交的に国交を結ぶのとは別問題なのだ、嘆かわしいことだと考えま
した。
◆フランス人拉致被害者とマレーシア人拉致被害者について
(それ以外の拉致被害者とは会っていませんか)
会ってはいません。話でだけ伝え聞いています。
フランスからも拉致されたそうです。その女性は教授だそうでした。北朝鮮の
青年が結婚しようといって、新郎の国をはじめて訪問するという形で北朝鮮に来
たといいます。来てみると新郎はいなくなり、自分は監禁状態におかれたので、
強く抗議して国際的に訴訟すると言ったようです。インテリだからそこまで考え
たようでした。そのような話だけを聞いていて、そのあとどうなったかは分かり
ません。
(その北朝鮮青年は東洋の富豪の息子のふりをしたのでしょう)
そうです。
(マレーシア人拉致被害者についても聞いていらっしゃいますね)
話だけを聞いて、会ってはいません。
(マレーシア人夫婦がいるという話ですね)
はい、そうです。
(フランス人について聞いた時期はいつですか、やはり東北里ですか)
いつ拉致されたのかは分かりませんが、その話は80年、81年に聞きました。
(マレーシア夫婦については)
私が東北里にいたときです。
◆拉致被害者の待遇
待遇はよかったです。食事はコックが一人に一人付き、掃除などをする人と合
わせて2人がいました。一軒に(拉致被害者が)一人で暮らしました。生活は不
自由なく、よくしてくれました。けれども行動の自由はありませんでした。
◆国際会議参加者へのメッセージ
本当にひどいことです。
私はこのように自由世界に戻れ、故郷に帰り家族とも会えて、悪夢を見たよう
な気持ちですが、まだ、愛する家族を奪われ苦しんでいる人たちにどのような慰
めの言葉をおかけしたらよいかわかりません。
今回の会議が、いまだに北朝鮮にいる方々が一日でも早く自由世界に出てこら
れる契機になればよいと思います。
以上
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