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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

今後の運動方針と全拉致被害者救出への道2(2025/04/23)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2025.04.23)

■今後の運動方針と全拉致被害者救出への道2

◆有本さんの思い出

西岡力(救う会会長)

 情勢分析をする前に、私も有本のお父さんのことを、色々と思い出があります
ので、そのことを少しだけお話させていただきます。

 先ほど早紀江さんもおっしゃいましたが、有本さんたちの所に(ヨーロッパ人
に託した)手紙が来た。石岡さんの自宅に手紙が来たのですが、「有本さん、松
木さんと3人で平壌にいる」と書いてありました。1988年のことです。

 その時にどうするかと色々ご家族で議論をされた中で、有本さんたちは、「表
に出そう」ということで、東京まで出てきて、外務省や警察に行きました。

 私は、2004年頃だったか、有本さんが「言いたいことがいっぱいある」と言っ
て、しかし「なかなか行けない」ということで、「じゃあ、全部聞いてあげます」
と言いました。神戸にホテルを取って、朝から晩まで有本さんから聞きました。
そして有本明弘、西岡力の連名で、有本さんたちの戦いの記録を「月刊正論」に
書いたことがあります。

 その時に聞いたことですが、「最初は日本政府は大変冷たかった。外務省に行っ
ても、北東アジア課の部屋にも入れてくれなくて、廊下のベンチみたいなところ
で、課長ではなく実務者と話をした」そうです。

 「一番親切に聞いてくれたのは、安倍慎太郎事務所だった」と。当時外務大臣
だったのか、幹事長だったのかよく分かりませんが、「秘書の人が日弁連とか赤
十字に一緒に行きなさい」と言ってくださって、その秘書の一人が安倍晋三だっ
たのです。

◆尋ねた人々はみんな冷たかった

 そういう関係で有本さんは安倍さんのことを大変頼りにしていました。当時社
会党がまだ力があって、土井たか子さん全盛時代だった。土井さんは選挙区が
(有本さんが住む)兵庫県です。有本さんは土井事務所にも、ヨーロッパから来
た手紙を持って行った。しかし、あまり芳しい反応がなかった。

 2年後に金丸訪朝がありました。金丸信元自民党副総裁と田辺誠元社会党委員
長が北朝鮮を訪問したのです。そして兵庫県出身の石井一代議士が訪朝団の事務
総長だった。その時はもう手紙が来ていますから、有本さんは石井さんに会いに
行って、手紙のコピーも渡してお願いし、「取り上げてほしい」と言ったら、
「分かったと言った」と有本さんはおっしゃっていましたが、帰ってきて確認し
たら、「こんなもの出せるわけがないじゃないか」と。

 北朝鮮にいるという証拠もあるのに、出さなかった。そういう悔しい思いを語っ
ていらっしゃったことも思い出します。

 ちょうど88年と言うと、3月に梶山答弁があった。その1年前の87年11月に大韓
航空機爆破事件があり、その犯人の一人金賢姫(キム・ヒョンヒ)が死ぬために
毒を飲んだが、自殺に失敗して韓国に連れてこられて、韓国の豊かさを見て、自
分はだまされてきたと分かって、自白を始め、1月になって記者会見を開いて、
「私が話している日本語は日本から拉致された人から学びました」と言ったこと
を受けて、日本の国会で初めて日本人が拉致されているということが議論された。
それが88年でした。

◆「金正日が命令した」と書いたら「身の危険はないか」と言われた

 金丸訪朝はその2年後です。有本さんたちには手紙があった。

 寺越事件(1963年)ですが、海岸から見えるところに網をかけ、それを取りに
行ったら、漁船はあったが人がいなくなっていた。「北朝鮮にいる」という手紙
が来たのは87年で、87年、88年に一部分かってきたのです。

 実はその前、85年に韓国で辛光洙(シン・グヮンス)が捕まっていました。北
朝鮮のスパイで、持っていたのは日本人の旅券だった。原敕晁(ただあき)さん
の旅券で、調べてみたら大物だった。辛光洙は原さんを拉致したと自供した。

 その頃、名前は分かっていたのに、最初に立ち上がったのが有本さんたちでし
た。政治家、外務省等政府、そしてマスコミも冷たかった。

 私が思い出すのは、有本さんたちの拉致の話が表に出た。そして金丸訪朝があっ
た。このままいくと拉致が棚上げになって国交正常化になるんじゃないかと思っ
て、当時文芸春秋社から出ていたオピニオン誌の「諸君!」という雑誌に、「日
本人が拉致されている」という論文を、私は1999年に書きました。

 日本の学者で初めて拉致について書いた論文だと思うのですが、周りから言わ
れたのは、「西岡先生、身の危険はないか」ということでした。日本の学者が日
本語で、「日本人が拉致されている」と書いたら、日本国内でテロにあうという
わけです。

 実は私も勇気がいりました。その論文で、「金正日が命令した」と書いたから
です。「これ書いたら殺されるかな」と思いました。その頃パソコンがなかった
ので夜中に鉛筆で書いたのですが、一度消しました。やはり書こうと思って書き
直しました。そういう中で有本さんたちは立ち上がったのです。

◆97年に拉致問題が表に出た

 そしてその後横田さんたちは、めぐみさんがどこにいるかも分からない状況で
した。大韓機事件から約10年経って、1996年に、私が編集長をやっていた「現代
コリア」という月刊誌に、石高健次さんという記者が書いた原稿と、新潟でのめ
ぐみさん失踪事件が一致して、拉致ではないかということになりました。

 そうしたら安明進(アン・ミョンジン)さん(元北朝鮮工作員・脱北者)が出
てきて、「めぐみさんを見た」と、97年に「産経新聞」の阿部雅美さんが日本人
拉致事件を初めて書き、週刊誌「AERA」の長谷川記者が拉致問題を書いたという
ことで、横田さんのことが表に出たのです。

 その時写真を提供して名前を出すかどうか、横田家では大変悩まれた。しかし
亡くなられた横田滋さんが、世論に訴えようという決断をして、それを見た他の
家族も合流して家族会ができたのです。

 しかし、その前から有本さんたちは、難しい壁がある中で活動していました。
私は専門家として論文は書いていましたが、救う会は作っていなかった。誰も有
本さんの横にいなかったのです。

 そういう中で鉄工所のおやじさんが、毎日新聞を読みながら、どうすればいい
かと自分で考えて、安倍さんの所に行ったり、外務省に行ったり、色々な所に行っ
て、ずっとやっていらっしゃった。

 記者の方が鉄工所に行くと、「よく来た」と言って、「話すことがいっぱいあ
る」と、「2時間、3時間も昔話を聞かされた」、と。「外務省はこうだった、自
民党はこうだった」とか。そういうことを覚えています。

 すごく強いことを言うのですが、慎重な所もあって、家族会ができた時、拉致
という言葉を使うかどうかで色々な話があった時、有本さんたちは、「拉致とい
う言葉はどうか」という主張だった。最初の家族会は拉致という言葉は、「拉致」
と鍵括弧(かぎかっこ)をつけていました。2002年にそれを外したのです。

 有本さんに言わせると、「自分たちはパスポートを持って外国に行った。『自
分で言った』と言われかねない状況だった。そのことにずっとひっかかっていた
んだ」と。

◆八尾恵が「有本恵子さんを拉致した」と

 そして2002年になって、八尾恵という「よど号犯」の犯人の妻の一人が、「有
本さんを拉致した犯人の一人はわたしたちです」と名乗り出たわけです。その後
テレビ局1局と契約して、そこで「謝罪する」という映像を売って、「謝罪しま
す」という本を書いて、「何だこれは」と私にすごく怒った。「八尾恵を糾弾す
る東京大会をやりましょう」と言ったのですが、有本さんご夫婦が「だめだ」と。

 「八尾さんはそうかもしれないけど、しかし家の恵子を拉致した犯人が、この
タイミングで拉致をしたと言ってくれたから、恵子のことを世の中に訴えられる
ようになった。怒りよりもありがたいと思った」と有本のお父さんが言っていま
した。

 「そういう風に家族は考えるものなのか」と、近くにいながら私はよく分かり
ませんでした。

 その後、八尾恵が出てきたり、よど号の犯人たちが裁判の法廷で署名したりし
たので、警察は有本さん、松木さん、石岡さんを拉致容疑に入れたんです。当時
はまだ認定制度がなかったので大騒ぎになって、国会で拉致について決議が出た。
そうしたら色々な報道が飛び交って、「有本さんは北京にいる」だとか。

 当時北朝鮮は小泉訪朝の準備をしていたわけです。強い圧力がブッシュ政権か
らかかる中で、日本に接近して軍事圧力をかわし、また日本から大規模な経済協
力を得る、ということを準備していたわけです。

◆有本恵子さんたちが一番出しやすかったのに

 その中で、拉致被害者の一部は出さなければならない。一番出しやすかったの
は、実は有本さんたちでした。彼らはパスポートを持って外国に出ていた。帰っ
てきても、「自分の意思で行きました」と言わせることができるわけです。

 海岸からいなくなった人たちは、「自分の意思で行きました」とは言えない。

 真相はまだ明らかになっていませんが、「北京で見た」とか、「有本さんが出
てくるのではないか」という話がいっぱい流れた中には、北朝鮮の内部で、誰を
返すかという検討があったことと、一定の関係があったのではないか。

 2002年の2月か3月頃、1977年にできた古い拉致議連会長だった政治家が有本家
に電話してきて、「救う会の佐藤会長と手を切りなさい。そうしたら恵子さんと
会わせてあげる」というような話があった。これに対し、「それはできません。
家の恵子だけが帰ってくればいいのではありません。みんな帰ってこなければい
けないんです」と言って断りましたと言って、すぐ私たちの所に電話をしてきた
のを覚えています。

 自分たちだけが、「拉致ではない」と言われる中で、それでも一番初めから戦っ
てきて、拉致だと分かって警察の認定を得た後、こんどは「自分たちだけが先に
帰って来られるかもしれない」と言われた時に、「全員でなければだめだ」とずっ
と言い張ったのは有本さんたちご夫婦でした。

 そして9月17日になって、「死亡」と通告された時に、有本のお父さんは、
「ほんまかいな」とすぐ言いました。それはつまり、手紙が表に出てしまった。
自分たちがその手紙を持って色々な所を回った。その手紙が北朝鮮に伝えられて、
「なぜ手紙を書いたのか」と言われて、殺されたかもしれない。瞬間的に有本の
お父さんはそう思ったのではないかと思います。

◆本当に心のきれいな人

 そして小泉訪朝の後、次の日に来てくれたのは安倍晋三さんだけでした。小泉
総理からの説明は1週間後だと言われた。説明会がありました。その時有本のお
父さんがマイクを取って、「恵子が殺されたんじゃないですか」と言った。

 また、「曽我ひとみさんが帰ってきたのだから、認定されていない被害者もいっ
ぱいいるはずだ。政府はその人たちをどう救うつもりなのか」と言った。当時は
特定失踪者という言葉はまだなかった頃です。

 私は、「この人は何を考えているんだろう」と思いました。自分の娘のことを
言わないのです。本当に心のきれいな人だったんだなあと思います。

 いつもは、「○○さんの言うことは間違ってる」とか、「わしの言うことを聞
け」とか、話すと長いので、「もうやめてください」と私はよく言いました。

 一番最後は、去年の12月に、政府主催の人権週間の行事があって、林官房長官
が家族と懇談をしてくださる、ということで控室に入り、私も陪席したのですが、
有本さんも出てこられました。それが最後でした。

 そこでマイクを取って官房長官に、「一体政府は、どういう道筋で被害者を取
り戻すんだ。道筋を示せ」と、怒鳴ったんですね。実は皆さん一言ずつ話して、
実はこの後政府主催の本行事があるわけです。官房長官が作文コンクールの受賞
者に賞状を渡さなければならない。

 私は時計を見ながら、これはどうなるかと思ったんです。担当の人も、「お父
さん、そろそろ時間です」と言ったら、「馬鹿野郎何言ってんだ」と大きな声で
言い、「わしは今官房長官に話しているんだ」と。大きな声で言うのは少し耳が
遠くなったこともあるかもしれません。

 2月20日に「今後の運動方針」を持って官邸に行った時、林官房長官に会って、
一つだけ立ち話をしたんです。「あの時お父さんが長官に怒鳴っていましたよね」
と。そしたら長官が、「喝を入れられたんだ」とおっしゃっていました。

 もう90を過ぎているのですが、毎日新聞を見て、テレビのニュースを見て、そ
して来る度に手紙などを持って来るわけです。トランプ大統領に会う時も、時間
が短かすぎるからと手紙を書いて持ってきて英訳にしたら、トランプ大統領が本
当に読んでくれて、返事が来ました。それは有本さんが手紙を書いたからです。

 90歳になって、国際情勢の分析をして、自分で意見を持つというのは普通はで
きないです。学者出身なら分かりますが、鉄工所のおやじさんです。誰も助けて
くれない中で、恵子さんだけのためにずっとやってきた。

 私の中でも、大きな声で色々なことを話している姿が浮かんできます。本当に
恵子さんを取り戻すことができなくて、申し訳ない思いです。そのためにも、や
れることを一つひとつやっていくしかないと思っています。

(3につづく)



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