金正男不法入国事件に関する田中外相の対応について(2001/05/24)
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救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会
TEL 03-3946-5780/FAX 03-3944-5692 http://www.asahi-net.or.jp/~lj7k-ark
〒112-0015 東京都文京区目白台3-25-13
担当:荒木和博(事務局長 k-araki@mac.email.ne.jp)
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することができ、また多くの情報をリアルタイムで送れるようになりました。
■金正男不法入国事件に関する田中外相の対応について
このところマスコミで金正男事件の対応について、田中外相がすぐに退去させるよ
う強く主張したとの報道がなされています。本日付の毎日新聞はかなり詳しく入国か
ら退去までの経緯を書いていますが、これからすると田中外相が早期退去を主張した
理由はまさに拉致事件とのバーターにせよとの世論が起きるのを防ぐためだったとい
うことになります。まだ事実関係に確信が持てるわけではありませんが、事実とすれ
ば拉致事件の解決を外相が妨害したことになり、単なる不作為などの責任問題では済
まされないことです。
一方先週、石原都知事はある会合で拉致された人の数を150人と発言し、さらに、
いわゆる7件10人以外の被拉致者について、具体的な説明をしたとのこと。その中に
は私たち救う会がフォローしていない人もいるようです。都知事は前から度々被拉致
者の数を150人位と言っていますが、このあたりの情報も是非開示してもらいたいも
のです。こちらからもアプローチしたいと思っています。(荒木)
■拉致事件関連資料(平成13年2月3日 現在)
※前に送ったものと同じですが、その後リストに入れた方が多数いますので御参考ま
で再度送ります。
・ 日本政府が北朝鮮による拉致と特定している「7件10人」
(1)久米裕さん
昭和52(1977)年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当
時52歳)は、能登半島の宇出津海岸から北朝鮮に拉致されている。久米さんの足どり
は宇出津海岸の旅館で途絶えており、久米さんをその旅館まで連れていった在日朝鮮
人Rが外国人登録法違反で逮捕され、次のように自白した。
「北朝鮮工作員から『52,3歳の日本人男性で身寄りのない者を北朝鮮に拉致するこ
と。頭の程度は問わない。戸籍謄本を取らせて9月19日夜、能登町宇出津海岸で待っ
ている工作員に引き渡せ』と指令を受け、金に困っていた久米さんに近づき、密貿易
を手伝わないかとだまして、戸籍謄本をとらせて宇出津海岸の旅館まで連れて行き、
昨夜、海岸で待っていた北朝鮮の工作員に久米さんを渡した」
東京のRの自宅から乱数表、暗号解読表等の証拠も押収されているが、Rは「出国
時の意思」を久米裕さんから確認できないことを理由に起訴は見送られ、外国人登録
法違反でも不処分のまま釈放されている。
(2)横田めぐみさん
昭和52(1977)年11月15日夕刻、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致された。こ
の事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送の石高健次氏が寄稿した論文で言
及されていた「中学校一年生の少女拉致」が端緒となり、同年末その少女が横田めぐ
みさんであることが判明、翌平成9(1997)年1月23日西村真悟衆議院議員(現自由)が
政府に質問書を提出、さらに2月3日には衆議院予算委員会で質問し、橋本総理も調査
中であること旨答弁した。また同じ2月3日発売の週刊誌「アエラ」と同日付けの産経
新聞がこれを大きく報じた。
政府は平成9年5月1日の参議院決算委員会の吉川芳男議員(自民)の質問への答弁
を通じ北朝鮮による拉致事件として認定したことを明らかにした。アベック拉致と同
様無線傍受などの情報によって特定したものと考えられる。この事件は当初工作員が
海岸に来ためぐみさんに見つかり、工作活動が発覚するのを恐れて拉致したと言われ
ていた(当初この情報をもたらした亡命工作員及び亡命工作員安明進氏が聞いた話)
が、その後現場の状況の調査などから、遭遇ではなく自宅近くで待ち伏せされて(個
人名を特定しない、「若い女性」などの指示による)拉致されたものと思われる。安
明進氏の情報は北朝鮮の工作員養成機関「金正日政治軍事大学校」の教官から伝えら
れたものだが、安氏によれば、「想像だが暗くて年齢が分からず、拉致してみたら子
供だったので、『見つけられたので拉致した』ということにしたのではないか」との
ことである。
(3)田口八重子さん
昭和53(1978)年6月に東京高田馬場のベビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま
拉致された。朝鮮語や政治の教育を受けた後、昭和56(1981)年7月から58(1983)年3
月まで大韓航空機爆破事件の犯人金賢姫の日本人化教育係を勤める。北朝鮮では「李
恩恵」と呼ばれた。
昭和63(1988)年1月、金賢姫がソウルで行った記者会見によってその存在があきら
かになったが、事件後2人の子供を養子として育てていた田口さんの兄と姉が子供へ
の影響を考えて申し出ず、特定するのに時間がかかった。
平成3(1991)年5月15日、埼玉県警は記者会見をして、匿名での報道を条件に「李
恩恵」は埼玉県出身の田口八重子さんと判明したと発表し、「李恩恵が船で日本から
引っ張られたと金賢姫に言っていることから、拉致の可能性も含め、刑事事件として
捜査を行なう」と述べた。その5日後の5月20日から北京で開かれた第3回日朝国交正
常化交渉の日本側は「李恩恵」の消息調査を求めたが、北朝鮮側は激しく反発した。
第4回から第8回までの日朝交渉では日本側は本交渉ではなく次席代表同士の実務協議
の場で持ち出し、真相の究明を求めた続けた。北朝鮮側はこれを不満として第8回交
渉でそのことに言及すること自体認められないとして会談は決裂し現在に至っている。
(4)地村保志さん(5)浜本富貴恵さん
昭和53(1978)年7月7日午後7時40分頃、福井県小浜市の海岸に近い国道沿いのレス
トランを出た後、拉致された。地村さんは当時23歳の大工見習い、浜本さんは当時22
歳。海岸を見下ろす展望台に地村さんの乗っていた軽トラックが鍵のかかったままで
残されていた。2人は9日前に結納を済ませたばかりで、自らの意志で失踪すべき理由
はない。金賢姫は招待所(拉致された日本人から工作員教育を受けた秘密施設)の世
話係の女性から「ある招待所に日本人で大工仕事を上手にこなす男性がいた」と聞い
たと証言しているが、地村さんではないかと推測される。
(6)蓮池薫さん(7)奥土祐木子さん
昭和53(1978)年7月31日、午後6時に新潟県柏崎市の海岸から250メートル離れた図
書館で待ち合わせをした後拉致された。蓮池さんは当時20歳で帰省中の中央大学の学
生、奥土さんは当時22歳の美容指導員。蓮池さんは夏休み後に提出するレポートを書
き上げたばかりで、奥土さんは職場の店長に「コーヒーを一杯飲んだら帰るわ」といっ
て出かけており自らの意志で失踪すべき理由はない。海岸近くに林があり、そのあた
りで拉致されてゴムボートのある地点まで移送されたものと思われる。
(8)市川修一さん(9)増元るみ子さん
昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用車を残したまま
拉致された。市川さんは当時23歳で鹿児島市の電電公社(現NTT)職員、増元さん
は当時24歳で事務員。車はロックされ、助手席には増元さんの手提げバックとカメラ
が置いてあった。バックの中にはサングラス・財布・化粧道具などがそのまま残され、
車内はまったく荒らされた形跡がなかった。なお、市川さんについては安明進氏が金
正日政治軍事大学で何回も目撃し話をしたこともあると証言している。
(10)原敕晁(ただあき)さん
昭和55(1980)年6月、北朝鮮工作員辛光洙らによって宮崎県青島海岸から北朝鮮に
拉致された。原さんは当時49歳で、李三俊・在日朝鮮人大阪府商工会理事長の経営す
る中華料理店「宝海楼」の店員をしていた。その後辛は原さんになりすまし日本に入
国。パスポート、運転免許証、国民健康保険証まで取得し、海外にも出て対南工作を
続けていた。辛は昭和60(1985)年2月、原さん名義の旅券を持って韓国に入国し逮
捕され、韓国当局の取り調べによって原さん拉致事件が明らかにされた。辛は平
成11(1999)年12月31日恩赦で釈放され、金大中政権の「非転向長期囚送還」によって
翌12年9月2日北朝鮮に送られた。
・ 日本政府が北朝鮮による拉致未遂事件としている事件
富山のアベック拉致未遂事件
昭和53(1978)年8月15日、富山県高岡市の雨晴海岸で、アベックが4人組の男に襲わ
れた。2人は捉えられ、縛られた上、頭から布袋を被せられた。その状態で寝かされ
ていたが、犬の鳴き声が聞こえた後、男たちはその場を離れ、2人は逃げ出して難を
逃れた。袋や猿ぐつわ、手錠などの遺留品は日本のものではなかった。この事件以後
アベック拉致は行われていない。
・ 政府がまだ認定していない拉致事件
(11)寺越昭二さん(12)寺越外雄さん(13)寺越武志さん
昭和38(1963)年5月11日、石川県志賀町に住む寺越昭二さん(当時36歳)、外雄
さん(同24歳)、武志さん(同13歳)は漁に出て行方不明となり、船だけが沖合いで
発見された。昭二さんは寺越嘉太郎さんの二男、外雄さんは四男、武志さんは長男太
左衛門さん・友枝さん夫婦の息子。
失踪から24年後の 昭和62(1987)年1月22日、外雄さんから姉に北朝鮮で生活してい
る旨の手紙が届いた。太左衛門さんと友枝さんは8月、平壌を訪れ外雄さんと武志さ
んに会った。昭二さんについてはこのとき昭和43(1968)年に病気で亡くなったと伝
えられた。友枝さんはこのとき以来度々北朝鮮を訪問、武志さんに会っている。外雄
さんは平成6年秋に亡くなった。
安明進氏はこの事件と推定される事件について先輩工作員から聞いており、それに
よると昭二さんと思われる人物は拉致の現場で抵抗して射殺され海に沈められたとの
こと。また、安氏は武志さんと思われる人物が金正日政治軍事大学の中(物資の集積
をする基地)で働いているところを直接見たと言っている。
(14)福留貴美子さん
昭和45(1970)年3月に起きた赤軍派グループによる日航機ハイジャック、いわゆる
「よど号事件」の犯人の一人、岡本武の夫人である。独身だった犯人たちを結婚させ
るため、色々な手段が使われたが、福留さん以外(いわゆる「よど号の妻たち」は結
婚は考えていなかったとしても全員が主体思想研究会などの親朝団体の会員ないし何
らかの関係を持っており、少なくとも北朝鮮までは自分の意志で行った人々である。
福留さんだけはモンゴルにあこがれて渡航の方法を調べていたことなどを利用され、
騙されて出国し、拉致された上で無理矢理結婚させられた。昭和51(1976)年のことで
ある。
その後岡本と福留さんは北朝鮮からの脱出を企て逮捕され、収容所に送られたとい
う。もともと岡本の妻は現地の女性ということになっていた。それをジャーナリスト
の高沢皓司氏の得た情報をもとに朝日新聞の記者が日本人福留貴美子であるとつきと
め、平成8(1996)年8月7日付で報じたが、その2日後によど号グループが流した情
報と思われる「福留さんは岡本と共に昭和63(1988)年頃事故死した」との報道が各
紙に報じられた。本当の生死はまだ分からない。なお、福留さんは昭和55(1980)年
に一度帰国し、3月に横浜の友人の家に立ち寄ったことがある。何らかの工作活動に
利用されたものと推定される。政府は福留さんがこの年6月に出国したとしている。
これと高沢皓司氏の著書『宿命』の記述その他の情報を総合すると、家族や知友人と
の接触を厳禁されていたのを無視して友人に会い、その後高知の実家に帰ろうとして
監視者に捕まり6月まで監禁された上で北朝鮮に帰された(あるいは福留さんは工作
船などで北朝鮮に送られ、6月に福留さんを擬装した別人が出国した)ものと思われ
る。
(15)田中実さん
田中さんは昭和24(1949)年生まれ、神戸市東灘区に住む身寄りのないラーメン屋
店員だった。店を経営していた韓という朝鮮人が工作員で、「海外旅行に行く」と言っ
て誘われ、昭和53(1978)年6月6日に成田を出国、ウィーンに向かった後消息を断っ
ている。ウィーンで拉致されモスクワを経由して平壌に至ったと思われる。
田中氏については、北朝鮮工作員の指導の下日本国内で活動していた地下工作員、
張龍雲氏の証言によって明らかにされた(後掲参考図書参照)。また、この事件につい
ては平成8(1996)年12月12日の兵庫県議会警察常任委員会で大前繁雄県議が質問し
ており、大橋県警警備部長は「当該人物の行方については、拉致された可能性も含め
て慎重に調査をしている」と答弁している。
(16)小住健蔵さん
小住さんは北海道出身で昭和36(1961)年に行方不明になっていた。昭和55(1980)
年頃北朝鮮に拉致されたと推定されている。昭和55年6月、朴という工作員が小住健
蔵名義のパスポートを取得、海外に6回にわたって渡航していた。朴は昭和60(1985)
年に指名手配されたが、現在も逮捕されていない。朴は小住さんに成り代わる前、小
熊和也さんという男性を拉致しようとし、この男性が病死したため小住さんをターゲッ
トにしたとされている。
(17)有本恵子さん(18)Iさん(19)Mさん
有本さんは昭和58(1983)年8月9日、ロンドンでの語学留学から帰国する予定の当
日実家に「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」という電報が実家に届いた。その
後10月中旬にコペンハーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。Iさん
(男性)は札幌市出身、ヨーロッパ旅行中の昭和55(1980)年に消息を絶ち、昭和63
(1988)年9月6日に実家に手紙が届いた。そこには有本さんの写真や住所と熊本市出
身の留学生(京都外大大学院生)Mさん(男性)の名前などが書かれていたという。
手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「Iより 平壌にて」と書かれて
いた。最近になってこの手紙に有本恵子さんとIさんの間にできた子供と推定される
乳児の写真が添えられていたことが分かった。
※以下の氏名未詳者については、氏名の記載されている被拉致者、あるいは後掲の
「可能性のある事件」の失踪者と重複している可能性もあります。
(20)Aさん
安明進氏の証言で何人かの新たな日本人被拉致者が明らかになったが、そのうちの
一人。男性で時期は1970年代末から80年代初め。北海道で電気製品を配達する仕事を
しており、その仕事の途中で拉致された。届けた荷物の領収書に拉致する対象である
とする符丁が書いてあったという。身長は160センチ弱。
(21)Bさん(22)Cさん
安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた女性の日本人教官。二人とも現在の年齢
で40代後半ぐらい。Bさんは髪が肩くらいまでの長さ。色白、少し老けて見えた。C
さんは横田めぐみさんより少し背が低い。後述Dさんとよく話をしているのを見かけ
た。
(23)Dさん
安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた男性の日本人教官。めがねをかけていた。
30代前半に見えた。身長170センチ位。体格がいい。
(24)Eさん
安明進氏が平成2(1990)年10月頃爆破訓練用の模擬放送局で見かけた女性。身
長160センチ以上で、当時30代半ばに見えた。タバコを吸っていた。
(25)Fさん
1991年8月、安明進氏が訓練中にけがをして入院した915病院で会った。同じ入院患
者の女性。当時30代半ばに見えた。
(26)Gさん
安明進氏が915病院で盲腸手術を受けようとしていたとき見かけた男性。70歳近く
に見えた。
(27)Hさん
田口八重子さんが、1979年頃平壌市内の大聖山遊園地の食堂でお見合いさせられた
相手。当時40歳ぐらいに見え背が低かった。田口さんは入り口から入ってくるその男
性を見てそのまま席を立ってしまったという。金賢姫が石高健次氏に証言している。
(28)?(44)
よど号関係者のかなり確実な情報によると、よど号グループがヨーロッパ等で拉致
した日本人は上記(17)?(19)を含んで合計20人だという。すなわち残り17人の拉致被
害者が存在することになる。
(45)Iさん
1999(平成11)年3月14日付産経新聞朝刊及び週刊朝日3月26日号に掲載された。韓
国に亡命した元労働党調査部工作員が拉致を実行した工作員と親しい教官から聞いた
話。1980 年代の中ごろ西日本の海岸から、柔道と思われる格闘技にかなり熟達した
男性が3人がかりで拉致された。
(46)Jさん
(45)と同じ産経及び週刊朝日に掲載された。亡命した元労働党作戦部工作員
((45)の亡命者とは別人)の証言による。1979(昭和54)年から1980年に海岸の公園
で午後7時から8時頃、20代の男性がデートをしていた女性と別れた直後に拉致された。
(47)Kさん
韓国に亡命した元工作員車成根氏が工作員指導員から聞いた話。海岸から日本に潜
入した工作員が公園を散歩していた20代の男性1人を襲い麻酔をかけて清津に運んだ
という。
・ 北朝鮮による拉致の可能性のある事件(順番は失踪時期の順による)
以下の事件はあくまで「拉致の可能性のある失踪事件」であり、前に述べたような
確定的事件ではありません。北朝鮮による拉致でなく、日本国内で無事見つかればそ
れにこしたことはありません。その意味で北朝鮮に関係ないものでも構いませんので
以下の失踪された方々について何か情報がありましたらご連絡下さい。なお、救う会
関係者のところには他にも多数の拉致の可能性のある失踪事件についての情報が寄せ
られていますが、ここでは一定の拉致可能性が推定される事件のうち、ご家族がリス
トに載せることを承諾されたもののみを掲載してあります。
(1)森洋子さん
函館市に近い道南の町に居住していた森洋子さん(昭和19年5月15日生まれ)は昭
和38(1963)年9月20日夜函館市内で行方不明になった。他の拉致と時期は離れてい
るが寺越事件と同年である。
(2)Mさん
昭和42(1967)年2月、当時18歳の高校3年生で、自宅(富山県A町)近くの海岸に
バットの素振りをしてくる、と出かけたまま行方不明になった。海岸にバットと履い
ていた下駄が並べておいてあった。その日は海はベタ凪で、水島さんは遠泳の名手で
あり、溺れた可能性はない。拉致されたとすれば、時期的に考えると寺越事件と同様
工作員の出入りに遭遇したことによって連れ去られたケースであると思われる。
この事件と次の新木さんの事件については元参議院議員秘書で拉致問題に取り組ん
できた兵本達吉氏に家族から相談があった。兵本氏は多数の拉致及び拉致疑惑事件を
取り扱ってきた経験から本件が拉致の可能性が高いとして月刊「正論」平成11(1999)
年1月号に寄稿した論文「私が直感した拉致疑惑『新たな二件』」で明らかにした。
兵本氏によれば富山県警では疑惑事件として認識しているとのこと。
(3)新木章さん
新木さんは埼玉県川口市に住む銀行員だった。昭和52(1977)年5月21日(当時29
歳)外出して以来行方不明。自殺、家出の原因等は全く存在しない。兵本氏によれば
この事件も埼玉県警の段階で疑惑事件の一つと認識しているとのことである。
(4)前上昌輝さん
前上昌輝(まえがみ・まさてる)さんは実家が京都市にあり、北海道を旅行中の昭
和52(1977)年9月22日、旭川駅の荷物一時預かりにザックを預け、以来消息を絶っ
ている。11月初旬、実家に男性の声で電話が入った。声の主は低い声で「前上昌輝の
家の者か」とだけ尋ねた。電話に出た母親が「昌輝のことを知っているお方ですか」
と数回叫んだが、それには答えず「また電話する」と言って電話を切った。以来手が
かりは全くない。昭和32(1957)年7月16日生まれ、身長173cm。
この事件には北朝鮮による拉致と思われる要素は現在のところ見つかっていない。
ただ、時期が久米裕さんの拉致(9月19日)とほとんど同じであり、この時期から拉
致事件が頻発している点からすると可能性も否定できない。
(5)松本京子さん
松本京子さんは事件当時29歳。昭和52(1977)年10月21日夜8時頃、自宅近くの編
み物教室に行くといって家を出て以来行方不明。普段着で現金も持っていなかったと
のこと。この夜、自宅から約200メートル離れた松林で松本さんと2人の男が話をして
いるのを近くの人が目撃、「何をしている」と声をかけると男がこの人を殴り、その
直後、片方のサンダルを残したまま2人の男と松本さんは姿を消した。兄の孟さんは、
事件の暫く後から北朝鮮に拉致されたと認識していた。しかし、警察には取合っても
らえないと思い、北朝鮮による拉致ということは口に出さなかった。
事件の現場は境港市との市境に近く、境港は北朝鮮の拠点の一つでもあり、地理的
条件、環境など色々な条件は横田めぐみさんのものとよく似ている。時期は横田さん
の事件の一ヶ月前である。
・ それ以外の事件
高敬美さん・剛さん
敬美さんは昭和42年生まれ、剛さんは昭和45年生まれの朝鮮籍の兄弟。父親の高大
基が北朝鮮工作員で、昭和48年失踪したのを母親の渡辺秀子さんが探しに上京し、勤
めていた北朝鮮工作機関のダミー会社であるユニバーストレーディングを訪ねた。既
に高は北朝鮮に行っていたが、発覚するのを恐れた工作員が母子を監禁、秀子さんを
殺害し、二人の子供を北朝鮮に拉致した事件。これについては月刊「文藝春秋」平
成12年12月号に掲載された朝日放送石高健次氏の論文「母子『拉致・殺害』北朝鮮工
作組織を暴く」に詳しい。
※拉致された人々の総数は約70名と推定されている。これは警察庁に国内からの拉
致48人が挙げられていると言われ、これにヨーロッパルート20人を加えると68人とい
う数、元朝鮮総連工作員張龍雲氏が北朝鮮の当局者と話していて受けた感触などを元
にしている。人を特定して拉致する場合、身寄りのない人を選ぶ場合も多いから失踪
届すら出ない場合もあると考えられる。日本に侵入する工作員の基地は清津・咸興
の2カ所あり、また色々な機関が動いているので、被拉致者の総数は北朝鮮でも金正
日などごく一部の人間しか分からないだろう。
(拉致問題に関する参考文献)
横田早紀江著『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社・1500円)・安明
進著『北朝鮮拉致工作員』(徳間書店・1500円)・石高健次著『金正日の拉致指令』
(朝日文庫・660円)・石高健次著『これでもシラを切るのか北朝鮮』(光文社・848
円)・高世仁著『娘をかえせ 息子をかえせ』(旬報社・1500円)・高沢皓司著『宿
命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮文庫・857円)・恵谷治著『金正日大
図鑑』(小学館・1800円)・ジン・ネット北朝鮮問題取材班著『追跡!北朝鮮工作船』
(小学館文庫・495円)・西岡力著『暴走する国家・北朝鮮』(徳間文庫・495円)・
西岡力著『闇に挑む』(徳間文庫・590円)・張 龍雲『朝鮮総連工作員――「黒い蛇」
の遺言状』(小学館文庫・495円)・寺越友枝著『北朝鮮にいる息子よわが胸に帰れ』
(徳間書店・1500円)
救う会全国協議会ニュース
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・ 日本政府が北朝鮮による拉致と特定している「7件10人」
(1)久米裕さん
昭和52(1977)年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当
時52歳)は、能登半島の宇出津海岸から北朝鮮に拉致されている。久米さんの足どり
は宇出津海岸の旅館で途絶えており、久米さんをその旅館まで連れていった在日朝鮮
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「北朝鮮工作員から『52,3歳の日本人男性で身寄りのない者を北朝鮮に拉致するこ
と。頭の程度は問わない。戸籍謄本を取らせて9月19日夜、能登町宇出津海岸で待っ
ている工作員に引き渡せ』と指令を受け、金に困っていた久米さんに近づき、密貿易
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(2)横田めぐみさん
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の事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送の石高健次氏が寄稿した論文で言
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中であること旨答弁した。また同じ2月3日発売の週刊誌「アエラ」と同日付けの産経
新聞がこれを大きく報じた。
政府は平成9年5月1日の参議院決算委員会の吉川芳男議員(自民)の質問への答弁
を通じ北朝鮮による拉致事件として認定したことを明らかにした。アベック拉致と同
様無線傍受などの情報によって特定したものと考えられる。この事件は当初工作員が
海岸に来ためぐみさんに見つかり、工作活動が発覚するのを恐れて拉致したと言われ
ていた(当初この情報をもたらした亡命工作員及び亡命工作員安明進氏が聞いた話)
が、その後現場の状況の調査などから、遭遇ではなく自宅近くで待ち伏せされて(個
人名を特定しない、「若い女性」などの指示による)拉致されたものと思われる。安
明進氏の情報は北朝鮮の工作員養成機関「金正日政治軍事大学校」の教官から伝えら
れたものだが、安氏によれば、「想像だが暗くて年齢が分からず、拉致してみたら子
供だったので、『見つけられたので拉致した』ということにしたのではないか」との
ことである。
(3)田口八重子さん
昭和53(1978)年6月に東京高田馬場のベビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま
拉致された。朝鮮語や政治の教育を受けた後、昭和56(1981)年7月から58(1983)年3
月まで大韓航空機爆破事件の犯人金賢姫の日本人化教育係を勤める。北朝鮮では「李
恩恵」と呼ばれた。
昭和63(1988)年1月、金賢姫がソウルで行った記者会見によってその存在があきら
かになったが、事件後2人の子供を養子として育てていた田口さんの兄と姉が子供へ
の影響を考えて申し出ず、特定するのに時間がかかった。
平成3(1991)年5月15日、埼玉県警は記者会見をして、匿名での報道を条件に「李
恩恵」は埼玉県出身の田口八重子さんと判明したと発表し、「李恩恵が船で日本から
引っ張られたと金賢姫に言っていることから、拉致の可能性も含め、刑事事件として
捜査を行なう」と述べた。その5日後の5月20日から北京で開かれた第3回日朝国交正
常化交渉の日本側は「李恩恵」の消息調査を求めたが、北朝鮮側は激しく反発した。
第4回から第8回までの日朝交渉では日本側は本交渉ではなく次席代表同士の実務協議
の場で持ち出し、真相の究明を求めた続けた。北朝鮮側はこれを不満として第8回交
渉でそのことに言及すること自体認められないとして会談は決裂し現在に至っている。
(4)地村保志さん(5)浜本富貴恵さん
昭和53(1978)年7月7日午後7時40分頃、福井県小浜市の海岸に近い国道沿いのレス
トランを出た後、拉致された。地村さんは当時23歳の大工見習い、浜本さんは当時22
歳。海岸を見下ろす展望台に地村さんの乗っていた軽トラックが鍵のかかったままで
残されていた。2人は9日前に結納を済ませたばかりで、自らの意志で失踪すべき理由
はない。金賢姫は招待所(拉致された日本人から工作員教育を受けた秘密施設)の世
話係の女性から「ある招待所に日本人で大工仕事を上手にこなす男性がいた」と聞い
たと証言しているが、地村さんではないかと推測される。
(6)蓮池薫さん(7)奥土祐木子さん
昭和53(1978)年7月31日、午後6時に新潟県柏崎市の海岸から250メートル離れた図
書館で待ち合わせをした後拉致された。蓮池さんは当時20歳で帰省中の中央大学の学
生、奥土さんは当時22歳の美容指導員。蓮池さんは夏休み後に提出するレポートを書
き上げたばかりで、奥土さんは職場の店長に「コーヒーを一杯飲んだら帰るわ」といっ
て出かけており自らの意志で失踪すべき理由はない。海岸近くに林があり、そのあた
りで拉致されてゴムボートのある地点まで移送されたものと思われる。
(8)市川修一さん(9)増元るみ子さん
昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用車を残したまま
拉致された。市川さんは当時23歳で鹿児島市の電電公社(現NTT)職員、増元さん
は当時24歳で事務員。車はロックされ、助手席には増元さんの手提げバックとカメラ
が置いてあった。バックの中にはサングラス・財布・化粧道具などがそのまま残され、
車内はまったく荒らされた形跡がなかった。なお、市川さんについては安明進氏が金
正日政治軍事大学で何回も目撃し話をしたこともあると証言している。
(10)原敕晁(ただあき)さん
昭和55(1980)年6月、北朝鮮工作員辛光洙らによって宮崎県青島海岸から北朝鮮に
拉致された。原さんは当時49歳で、李三俊・在日朝鮮人大阪府商工会理事長の経営す
る中華料理店「宝海楼」の店員をしていた。その後辛は原さんになりすまし日本に入
国。パスポート、運転免許証、国民健康保険証まで取得し、海外にも出て対南工作を
続けていた。辛は昭和60(1985)年2月、原さん名義の旅券を持って韓国に入国し逮
捕され、韓国当局の取り調べによって原さん拉致事件が明らかにされた。辛は平
成11(1999)年12月31日恩赦で釈放され、金大中政権の「非転向長期囚送還」によって
翌12年9月2日北朝鮮に送られた。
・ 日本政府が北朝鮮による拉致未遂事件としている事件
富山のアベック拉致未遂事件
昭和53(1978)年8月15日、富山県高岡市の雨晴海岸で、アベックが4人組の男に襲わ
れた。2人は捉えられ、縛られた上、頭から布袋を被せられた。その状態で寝かされ
ていたが、犬の鳴き声が聞こえた後、男たちはその場を離れ、2人は逃げ出して難を
逃れた。袋や猿ぐつわ、手錠などの遺留品は日本のものではなかった。この事件以後
アベック拉致は行われていない。
・ 政府がまだ認定していない拉致事件
(11)寺越昭二さん(12)寺越外雄さん(13)寺越武志さん
昭和38(1963)年5月11日、石川県志賀町に住む寺越昭二さん(当時36歳)、外雄
さん(同24歳)、武志さん(同13歳)は漁に出て行方不明となり、船だけが沖合いで
発見された。昭二さんは寺越嘉太郎さんの二男、外雄さんは四男、武志さんは長男太
左衛門さん・友枝さん夫婦の息子。
失踪から24年後の 昭和62(1987)年1月22日、外雄さんから姉に北朝鮮で生活してい
る旨の手紙が届いた。太左衛門さんと友枝さんは8月、平壌を訪れ外雄さんと武志さ
んに会った。昭二さんについてはこのとき昭和43(1968)年に病気で亡くなったと伝
えられた。友枝さんはこのとき以来度々北朝鮮を訪問、武志さんに会っている。外雄
さんは平成6年秋に亡くなった。
安明進氏はこの事件と推定される事件について先輩工作員から聞いており、それに
よると昭二さんと思われる人物は拉致の現場で抵抗して射殺され海に沈められたとの
こと。また、安氏は武志さんと思われる人物が金正日政治軍事大学の中(物資の集積
をする基地)で働いているところを直接見たと言っている。
(14)福留貴美子さん
昭和45(1970)年3月に起きた赤軍派グループによる日航機ハイジャック、いわゆる
「よど号事件」の犯人の一人、岡本武の夫人である。独身だった犯人たちを結婚させ
るため、色々な手段が使われたが、福留さん以外(いわゆる「よど号の妻たち」は結
婚は考えていなかったとしても全員が主体思想研究会などの親朝団体の会員ないし何
らかの関係を持っており、少なくとも北朝鮮までは自分の意志で行った人々である。
福留さんだけはモンゴルにあこがれて渡航の方法を調べていたことなどを利用され、
騙されて出国し、拉致された上で無理矢理結婚させられた。昭和51(1976)年のことで
ある。
その後岡本と福留さんは北朝鮮からの脱出を企て逮捕され、収容所に送られたとい
う。もともと岡本の妻は現地の女性ということになっていた。それをジャーナリスト
の高沢皓司氏の得た情報をもとに朝日新聞の記者が日本人福留貴美子であるとつきと
め、平成8(1996)年8月7日付で報じたが、その2日後によど号グループが流した情
報と思われる「福留さんは岡本と共に昭和63(1988)年頃事故死した」との報道が各
紙に報じられた。本当の生死はまだ分からない。なお、福留さんは昭和55(1980)年
に一度帰国し、3月に横浜の友人の家に立ち寄ったことがある。何らかの工作活動に
利用されたものと推定される。政府は福留さんがこの年6月に出国したとしている。
これと高沢皓司氏の著書『宿命』の記述その他の情報を総合すると、家族や知友人と
の接触を厳禁されていたのを無視して友人に会い、その後高知の実家に帰ろうとして
監視者に捕まり6月まで監禁された上で北朝鮮に帰された(あるいは福留さんは工作
船などで北朝鮮に送られ、6月に福留さんを擬装した別人が出国した)ものと思われ
る。
(15)田中実さん
田中さんは昭和24(1949)年生まれ、神戸市東灘区に住む身寄りのないラーメン屋
店員だった。店を経営していた韓という朝鮮人が工作員で、「海外旅行に行く」と言っ
て誘われ、昭和53(1978)年6月6日に成田を出国、ウィーンに向かった後消息を断っ
ている。ウィーンで拉致されモスクワを経由して平壌に至ったと思われる。
田中氏については、北朝鮮工作員の指導の下日本国内で活動していた地下工作員、
張龍雲氏の証言によって明らかにされた(後掲参考図書参照)。また、この事件につい
ては平成8(1996)年12月12日の兵庫県議会警察常任委員会で大前繁雄県議が質問し
ており、大橋県警警備部長は「当該人物の行方については、拉致された可能性も含め
て慎重に調査をしている」と答弁している。
(16)小住健蔵さん
小住さんは北海道出身で昭和36(1961)年に行方不明になっていた。昭和55(1980)
年頃北朝鮮に拉致されたと推定されている。昭和55年6月、朴という工作員が小住健
蔵名義のパスポートを取得、海外に6回にわたって渡航していた。朴は昭和60(1985)
年に指名手配されたが、現在も逮捕されていない。朴は小住さんに成り代わる前、小
熊和也さんという男性を拉致しようとし、この男性が病死したため小住さんをターゲッ
トにしたとされている。
(17)有本恵子さん(18)Iさん(19)Mさん
有本さんは昭和58(1983)年8月9日、ロンドンでの語学留学から帰国する予定の当
日実家に「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」という電報が実家に届いた。その
後10月中旬にコペンハーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。Iさん
(男性)は札幌市出身、ヨーロッパ旅行中の昭和55(1980)年に消息を絶ち、昭和63
(1988)年9月6日に実家に手紙が届いた。そこには有本さんの写真や住所と熊本市出
身の留学生(京都外大大学院生)Mさん(男性)の名前などが書かれていたという。
手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「Iより 平壌にて」と書かれて
いた。最近になってこの手紙に有本恵子さんとIさんの間にできた子供と推定される
乳児の写真が添えられていたことが分かった。
※以下の氏名未詳者については、氏名の記載されている被拉致者、あるいは後掲の
「可能性のある事件」の失踪者と重複している可能性もあります。
(20)Aさん
安明進氏の証言で何人かの新たな日本人被拉致者が明らかになったが、そのうちの
一人。男性で時期は1970年代末から80年代初め。北海道で電気製品を配達する仕事を
しており、その仕事の途中で拉致された。届けた荷物の領収書に拉致する対象である
とする符丁が書いてあったという。身長は160センチ弱。
(21)Bさん(22)Cさん
安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた女性の日本人教官。二人とも現在の年齢
で40代後半ぐらい。Bさんは髪が肩くらいまでの長さ。色白、少し老けて見えた。C
さんは横田めぐみさんより少し背が低い。後述Dさんとよく話をしているのを見かけ
た。
(23)Dさん
安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた男性の日本人教官。めがねをかけていた。
30代前半に見えた。身長170センチ位。体格がいい。
(24)Eさん
安明進氏が平成2(1990)年10月頃爆破訓練用の模擬放送局で見かけた女性。身
長160センチ以上で、当時30代半ばに見えた。タバコを吸っていた。
(25)Fさん
1991年8月、安明進氏が訓練中にけがをして入院した915病院で会った。同じ入院患
者の女性。当時30代半ばに見えた。
(26)Gさん
安明進氏が915病院で盲腸手術を受けようとしていたとき見かけた男性。70歳近く
に見えた。
(27)Hさん
田口八重子さんが、1979年頃平壌市内の大聖山遊園地の食堂でお見合いさせられた
相手。当時40歳ぐらいに見え背が低かった。田口さんは入り口から入ってくるその男
性を見てそのまま席を立ってしまったという。金賢姫が石高健次氏に証言している。
(28)?(44)
よど号関係者のかなり確実な情報によると、よど号グループがヨーロッパ等で拉致
した日本人は上記(17)?(19)を含んで合計20人だという。すなわち残り17人の拉致被
害者が存在することになる。
(45)Iさん
1999(平成11)年3月14日付産経新聞朝刊及び週刊朝日3月26日号に掲載された。韓
国に亡命した元労働党調査部工作員が拉致を実行した工作員と親しい教官から聞いた
話。1980 年代の中ごろ西日本の海岸から、柔道と思われる格闘技にかなり熟達した
男性が3人がかりで拉致された。
(46)Jさん
(45)と同じ産経及び週刊朝日に掲載された。亡命した元労働党作戦部工作員
((45)の亡命者とは別人)の証言による。1979(昭和54)年から1980年に海岸の公園
で午後7時から8時頃、20代の男性がデートをしていた女性と別れた直後に拉致された。
(47)Kさん
韓国に亡命した元工作員車成根氏が工作員指導員から聞いた話。海岸から日本に潜
入した工作員が公園を散歩していた20代の男性1人を襲い麻酔をかけて清津に運んだ
という。
・ 北朝鮮による拉致の可能性のある事件(順番は失踪時期の順による)
以下の事件はあくまで「拉致の可能性のある失踪事件」であり、前に述べたような
確定的事件ではありません。北朝鮮による拉致でなく、日本国内で無事見つかればそ
れにこしたことはありません。その意味で北朝鮮に関係ないものでも構いませんので
以下の失踪された方々について何か情報がありましたらご連絡下さい。なお、救う会
関係者のところには他にも多数の拉致の可能性のある失踪事件についての情報が寄せ
られていますが、ここでは一定の拉致可能性が推定される事件のうち、ご家族がリス
トに載せることを承諾されたもののみを掲載してあります。
(1)森洋子さん
函館市に近い道南の町に居住していた森洋子さん(昭和19年5月15日生まれ)は昭
和38(1963)年9月20日夜函館市内で行方不明になった。他の拉致と時期は離れてい
るが寺越事件と同年である。
(2)Mさん
昭和42(1967)年2月、当時18歳の高校3年生で、自宅(富山県A町)近くの海岸に
バットの素振りをしてくる、と出かけたまま行方不明になった。海岸にバットと履い
ていた下駄が並べておいてあった。その日は海はベタ凪で、水島さんは遠泳の名手で
あり、溺れた可能性はない。拉致されたとすれば、時期的に考えると寺越事件と同様
工作員の出入りに遭遇したことによって連れ去られたケースであると思われる。
この事件と次の新木さんの事件については元参議院議員秘書で拉致問題に取り組ん
できた兵本達吉氏に家族から相談があった。兵本氏は多数の拉致及び拉致疑惑事件を
取り扱ってきた経験から本件が拉致の可能性が高いとして月刊「正論」平成11(1999)
年1月号に寄稿した論文「私が直感した拉致疑惑『新たな二件』」で明らかにした。
兵本氏によれば富山県警では疑惑事件として認識しているとのこと。
(3)新木章さん
新木さんは埼玉県川口市に住む銀行員だった。昭和52(1977)年5月21日(当時29
歳)外出して以来行方不明。自殺、家出の原因等は全く存在しない。兵本氏によれば
この事件も埼玉県警の段階で疑惑事件の一つと認識しているとのことである。
(4)前上昌輝さん
前上昌輝(まえがみ・まさてる)さんは実家が京都市にあり、北海道を旅行中の昭
和52(1977)年9月22日、旭川駅の荷物一時預かりにザックを預け、以来消息を絶っ
ている。11月初旬、実家に男性の声で電話が入った。声の主は低い声で「前上昌輝の
家の者か」とだけ尋ねた。電話に出た母親が「昌輝のことを知っているお方ですか」
と数回叫んだが、それには答えず「また電話する」と言って電話を切った。以来手が
かりは全くない。昭和32(1957)年7月16日生まれ、身長173cm。
この事件には北朝鮮による拉致と思われる要素は現在のところ見つかっていない。
ただ、時期が久米裕さんの拉致(9月19日)とほとんど同じであり、この時期から拉
致事件が頻発している点からすると可能性も否定できない。
(5)松本京子さん
松本京子さんは事件当時29歳。昭和52(1977)年10月21日夜8時頃、自宅近くの編
み物教室に行くといって家を出て以来行方不明。普段着で現金も持っていなかったと
のこと。この夜、自宅から約200メートル離れた松林で松本さんと2人の男が話をして
いるのを近くの人が目撃、「何をしている」と声をかけると男がこの人を殴り、その
直後、片方のサンダルを残したまま2人の男と松本さんは姿を消した。兄の孟さんは、
事件の暫く後から北朝鮮に拉致されたと認識していた。しかし、警察には取合っても
らえないと思い、北朝鮮による拉致ということは口に出さなかった。
事件の現場は境港市との市境に近く、境港は北朝鮮の拠点の一つでもあり、地理的
条件、環境など色々な条件は横田めぐみさんのものとよく似ている。時期は横田さん
の事件の一ヶ月前である。
・ それ以外の事件
高敬美さん・剛さん
敬美さんは昭和42年生まれ、剛さんは昭和45年生まれの朝鮮籍の兄弟。父親の高大
基が北朝鮮工作員で、昭和48年失踪したのを母親の渡辺秀子さんが探しに上京し、勤
めていた北朝鮮工作機関のダミー会社であるユニバーストレーディングを訪ねた。既
に高は北朝鮮に行っていたが、発覚するのを恐れた工作員が母子を監禁、秀子さんを
殺害し、二人の子供を北朝鮮に拉致した事件。これについては月刊「文藝春秋」平
成12年12月号に掲載された朝日放送石高健次氏の論文「母子『拉致・殺害』北朝鮮工
作組織を暴く」に詳しい。
※拉致された人々の総数は約70名と推定されている。これは警察庁に国内からの拉
致48人が挙げられていると言われ、これにヨーロッパルート20人を加えると68人とい
う数、元朝鮮総連工作員張龍雲氏が北朝鮮の当局者と話していて受けた感触などを元
にしている。人を特定して拉致する場合、身寄りのない人を選ぶ場合も多いから失踪
届すら出ない場合もあると考えられる。日本に侵入する工作員の基地は清津・咸興
の2カ所あり、また色々な機関が動いているので、被拉致者の総数は北朝鮮でも金正
日などごく一部の人間しか分からないだろう。
(拉致問題に関する参考文献)
横田早紀江著『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社・1500円)・安明
進著『北朝鮮拉致工作員』(徳間書店・1500円)・石高健次著『金正日の拉致指令』
(朝日文庫・660円)・石高健次著『これでもシラを切るのか北朝鮮』(光文社・848
円)・高世仁著『娘をかえせ 息子をかえせ』(旬報社・1500円)・高沢皓司著『宿
命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮文庫・857円)・恵谷治著『金正日大
図鑑』(小学館・1800円)・ジン・ネット北朝鮮問題取材班著『追跡!北朝鮮工作船』
(小学館文庫・495円)・西岡力著『暴走する国家・北朝鮮』(徳間文庫・495円)・
西岡力著『闇に挑む』(徳間文庫・590円)・張 龍雲『朝鮮総連工作員――「黒い蛇」
の遺言状』(小学館文庫・495円)・寺越友枝著『北朝鮮にいる息子よわが胸に帰れ』
(徳間書店・1500円)