「寺越事件50年、今何をすべきか 東京特別集会」全記録
◆15年前の半年間、寺越友枝さんは「武志は拉致」と運動
西岡 ありがとうございました。今日、大臣は、石川県で現場を見たいと、そしてまた地元の救う会が集会をするならばそこにも参加したいという話がありましたが、石川県における救出運動の現状と今年その集会ができるかどうかについて大口英夫さんからお願いします。
大口 今から15年前に寺越友枝さんは、寺越事件は拉致といっていました。そう訴えた時期がありました。『現代コリア』に、寺越武志さんも北朝鮮で亡くなったと書いたものを見て、友枝さんが『現代コリア』に電話をかけて文句を言った。
それから前の救う会事務局長だった荒木和博が、3人の方が北朝鮮に行ってまだ一人生きているということであれば、ほったらかしの状況は大変なことだと、15年前に荒木さんが石川県に来られました。
それで、「この問題に取組むのにお前も協力してくれ」ということで、寺越友枝さんと半年間、毎日一緒にいました。その半年というのは、増元照明さんなど家族会の皆さんと一緒に行動した半年でした。
その時、寺越友枝さんの家族は北朝鮮が怖いと、ステージ上で私が武志さんの写真を持って立ったりしていました。そして武志さんも拉致だと訴えました。その間、武志さんの戸籍が回復されました。
この半年間は、私も武志さんが殺されるんじゃないかと思っていました。荒木さんが友枝さんに言ったのは、「拉致だと訴えたら殺される確率も高いですよ、と。殺されるかもしれません。だけどもしっかりと武志さんを表に出してきて、武志さんの身の安全が保障されるようになるのも確率が高いですよ」と。お母さんは、当時はそれに賭けました。
そして戸籍が回復して、いよいよ表舞台に武志さんが出てきました。そして、「私は労働組合の副委員長で大変いい生活をしている」と、報道で表に出てきました。
次は武志さんの一時帰国で動くんですが、そこ辺りから友枝さんは、家族会とか救う会と距離を置くようになりました。私とも距離を置くようになりました。そして皆さんご存知のように今日まで至ります。
友枝さんは、「武志は拉致ではありません」と今日まで言っています。北朝鮮を訪問した回数はもう65回。
他方、武志さんと一緒に失踪した寺越昭二さんの3人の息子さんは、「親父は拉致に違いない」と言うわけですが、安明進さんの証言では「船の上で射殺された」と。武志さんの話では、「救助されて北朝鮮で生活していたが亡くなった」、と。一緒に失踪した叔父さんの外雄さんは向こうで生存していたことが確認されています。
そして今日まで、こちらは拉致だと言うけれど、友枝さんは拉致ではないと。これのやりとりで大変ややこしかったです。失踪した日が5月12日です。今年で50年目。拉致認定を求めるということで参りましたが、西岡さんがこの間、5月12日に石川県に来られました。
そしてこれからは、政府に対して拉致認定を求めるのではなくて、「寺越事件の解決なくして拉致問題の解決はない」と大臣から言っていただこうということで本日になりました。
大臣は、「石川県で集会があれば私も行く」と。そして、「寺越事件の現場と宇出津(うしず)事件(久米裕さん拉致)の現場を見る」と。これまで1回も、大臣が石川県に来て現場を見ることはありません。しかし、来てくださると明言してくださいました。
そういうややこしい寺越事件なものですから、石川県の政治に携わっている皆さんも対応が困るんです。動いたらまた友枝さんからお叱りの電話がかかってきたり、私もどれだけ怒られたか分かりません。なかなか政治も動きませんでした。
私は以前は市会議員、今は県会議員ですが、昨年、ちょうど1年前、自民党の県議会でも拉致議連を作らなかったら大変だぞと、昨年から作る方向で動いています。今日の大臣の言葉をもって県議会に戻り、早々に拉致議連を作ってくださいとお願いをしようと思っています。
そして石川県で政府が主催する集会を、なるべく早いうちに開催できるように頑張りたいと思います。そして大臣には、寺越事件の現場、宇出津事件の現場に来ていただきたいと思います。本当に今日はいい日になったと思います(拍手)。
西岡 今日の要請は、家族会と救う会全国協議会も一緒に要請しました。これまでのやり取りを聞いていて、飯塚代表はご都合で昼の要請にはいけなかったんですが、増元さんが行ってくださいました。
実は今日は、平沼赳夫拉致議連会長のところにも、報告に行きました。議連としても、真相究明が必要、「寺越事件の解決なくして拉致問題の解決はない」ということで政府にプッシュしてほしいと申し上げたら、その通りだとおっしゃっていました。増元さんから今日の所感を述べていただいて、その後飯塚繁雄代表にひとことお願いします。