「よど号犯による拉致事件を考える 東京連続集会73」全記録
◆何度も高沢さんの所に通って聞いたこと
斉藤文代(松木薫さん姉)
今日は遅くまで聞いていただき感謝しています。
有本のお父さん、お母さんの話を聞き、また信宏も話しましたが、弟(薫さん)のことでは2002年、2004年に骨を北が出してきた時、北とどう戦っていかなければならないか色々考えまして、東京に出てくる時、私は何かができる力は持っていませんので、時間があると高沢さんに会いにいきました。
最初はなかなかお話をしてくれませんでした。どうしたらしゃべるのかなあと思って、豪華なお食事を出すと、少しずつしゃべってくれるようになりました。
何回も私は通いました。そして最初に話をしてくれたのが、北朝鮮にいる時に、田宮と仲良くしていて、東京に帰る時がきたときに、田宮が「松木薫さんのお母さんに会ってくれ」と言われたと。そして、「熊本の方まで僕は行ったんです」と。
それでお母さんにお話をしようかなと探したところ、入院しているということを知って、それで東京に帰って、もう一度熊本に行こうと思った時に倒れたらしいんです。
それで、「じゃあ、どんなお話を母にするつもりだったんですか」と聞いたら、「薫さんは絶対お母さんの元に返すから」ということ(田宮の伝言)を伝えてくれということだったということを、何度も何度も行ってその話を聞きました。
ここを散歩していたんだとか、八尾恵はここのアパートにいたんだとかいうことを教えてくれました。色んな話はしてくれたんですけど、私たちはそういう話を聞いても、北朝鮮にいる弟たちを助けてあげることはできません。
でもそういう話を聞いた時に、何としても家族をみんな日本に取戻さなければいけないと、私もまだ元気がよかったので何とか頑張ろうという気持で時期を待っておりました。
安倍総理が元気になられて、もう一度総理になられて、私たちに、「絶対家族を取戻す」という言葉を言ってくださった時には、本当に私は信じて待とうと思いました。今まで色んな方にお願いしてきたけど、どうにもならなかったので、もう一度信じて待って、家族と早く再会できることを祈っていることも大事なことだし、夢も持っておかなければいけないと思って今日に至っています。
しかし、今私の母は、3月10日に92歳になりまして、もう食べるものも食べられません。毎日、毎日やせ細っていって、今は本当に骨と皮です。そういう顔を本当は人に見せたくなかったんですが、そういう顔も、こんなに長く待っているということを伝えたかったので、まだ写真が撮れる頃には一度撮っていただいて、(メディアに)流れたと思います。
毎日看病に行っていますが辛いです。本当にかわいそうです。何とかしてあげたい。だけど私たちは何もできない。お母さんに、「もう少し待っていてちょうだい」と言うしかできないんです。だから私は、毎日を大事にして、母に会わせてあげられる日までなんとか生きさせたいと思っておりますが、もう長くはないと思っています。
でも母は頑張って、何としてでも会いたいという気持があるから、今息を一生懸命しているんだと思います。
拉致被害者家族はみんな身体が弱ってきています。私も母と同じような気持で、何とかして会わせてあげられないものかと寝る時にいつも思います。皆さん本当に辛いだろうなと思いますが、まずは家族会の方々がみんな病気をしないように、そして母のように話ができなくならないように、元気でいてほしいと願っています。
皆さん一生懸命活動しておられますが、皆さん元気でいてほしいという気持でおりますので、どうか家族会の皆さんはお身体を大事にしていただき、私も毎日努めさせていただいておりますので、もうあと少し頑張ればという気持です。皆さんにお礼が言える日が早く来るように頑張って生きていきたいと思います。
有本さんも、横田さんも、家族会の皆さんがまず元気でいるというのが今の私の願いです。元気でいないと帰ってきた家族と会えませんから。どうかこれからも支えて、応援していただきたいと思います。もう少し皆様方に助けていただきたいなあと思っています。どうぞ宜しくお願い致します(拍手)。