「アメリカから見た拉致問題?東京連続集会74」全記録
◆アメリカとの連帯の意義は普遍的価値観に
ここで数歩身を引いて、この拉致問題とはそもそもなんなのか。私たち日本国民にとってなにを意味するのか、ワシントンにいて遠くから日本を眺めたような立場ですが、私自身は次のようなことを感じます。
北朝鮮当局による日本人拉致事件という事柄には、少なくとも三つの基本的な要素があります。そういう要素を持つ巨大な課題として私たち日本人の前に立ちふさがっているのが、この拉致事件だといえます。
第1はいわずもがな、人道主義、ヒューマニズムという要素です。人間の苦しみや悲しみということです。なんの罪もない若い日本人男女が自分の国の中で、家のすぐ近所で、外国政府の工作員に連れ去られ、気の遠くなるほどの長い年月、拉致されたままであること、このむごたらしい現実が被害者だけでなく、被害者を愛する家族や友人たちにどれほどの苦痛や悲惨な思いを与えてきたか。その果てしない苦しみというのは個々の人間の事象ではありますが、同時に、全世界の誰の胸にも響きうる、普遍性を持つ悲劇だといえると思います。
2番目の要素は日本という国のあり方です。
自分の国の国民の生命や安全を守ることはどの主権国家にとっても最小限の責務です。主権在民の民主主義の国家であれば特に、なおさらそうだと思います。イギリスのウィンストン・チャーチルの言葉に次のようなものがあります。
「ある国家が自国の国民を暴力から守ろうとする努力の発揮は、その国家の偉大さを測定する最も真実な指針である」
国家には国民を守る責務があり、その責務の遂行のためにどこまで努力するかがその国家の品格を決めるという意味でしょう。
しかし日本という国は拉致問題に関して結果としてまだこの責任や義務を果たしていません。それどころか過去において、日本の国家も政府も北朝鮮による日本人の拉致という犯罪の解決には背を向けた時代が長く続きました。北朝鮮による拉致という言葉を口にするだけで、政府、マスコミ、そして世間からも冷たく扱われるという異常な状態が続きました。ここにいる方の多くがそのような扱いを受ける少数派の屈辱とか憤慨を体験されたはずです。
民間でもいわゆる知識人、文化人とされる多数の日本人が、「北朝鮮による拉致」という事件を否定して、その被害を訴える側をあざけり、ののしるという状態が長い期間、続いてきたんです。この国は多数派のおかしな主張を、単に多数意見だからという理由だけで放置しておくと、とんでもない間違いを犯すという、ややうとましい日本の現実をこの拉致事件は証明し、かつ是正しつつあるといえます。
いまや日本にとってこの問題の解決で正常な主権国家であることを証明すべきだというコンセンサスが形成されるところまできたようだと思います。この流れの変化の根底には国家という概念さえも認めなかった戦後の異様な思想、人間の基本的な権利や自由を許さない独裁国家をパラダイスのように描いてきた異様な主張、そのいずれもが北朝鮮の拉致自認、拉致を認めることで砕かれたという側面があります。ここにも拉致問題の展開が日本にとって貴重であるという実態があると思います。
そして3番目は国際関係としての要素です。この拉致問題は北朝鮮という犯罪国家、無法国家の特異性の表われです。いまこの要素が国際問題として急速に拡大しています。
北朝鮮は日本国民を拉致した時代と現在と、本質は変わっていません。核兵器開発、ミサイル発射、一連の軍事挑発行動など、みなその異様な本質の噴出だといえます。この無法国家に対し世界は、そしてまた日本は、どう対応するのか。この基本的な問いかけが日本人の拉致問題解決ともからみあっています。
その一方で、拉致問題はあっという間に解決しえます。金政権が崩壊した時です。朝鮮半島での動乱でそんな事態が起きたとき、では日本はどうするのか。拉致被害者の保護や救助の措置をどうとるのか。
こうみてくると、日本人拉致問題でもアメリカの役割がどうしても期待されてくるわけです。超大国、軍事大国のアメリカは北朝鮮の金政権を物理的に破壊も、抑止もできる力を持っている。朝鮮半島の動乱に対しても、直接に介入して、その帰趨を左右できる能力を有している。
日本にはそのいずれの力も残念ながらありません。さらには私が第一に申し上げた拉致問題の人道主義の要素は普遍的価値観という点で、アメリカにとっても大きな関心の対象となっています。このあたりに家族会、救う会の皆さん、そして拉致解決のための議員の集まり(議員連盟)の皆さんが努力されてきたアメリカとの連帯ということの意義があるといえます。