救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

「すべての拉致被害者を救出するぞ! 国民大集会」全記録



【5件の共通点】


西岡以上、35年前の夏、七夕から終戦記念日までの約1か月に4件8人が拉致され、1件2人の拉致未遂事件がありました。蓮池さん拉致の犯人、崔スンチョルは対外情報調査部の姜海龍(カン・ヘリョン)副部長から「早急に日本人を連れてこい」と指令を受けたと言われています。その指令を受けて急ぎ行われたのが、これらの拉致だったと思われます。5件の拉致の共通点を見ていきます。対象は「海岸近くに偶然居合わせたカップル」です。惠谷さんどうですか。
惠谷曽我さんを除いては未遂を含めカップルが4件狙われています。曽我さんの場合も、お母さんはズボンをはかれていて、工作員がカップルと見誤った可能性も考えられます。
西岡曽我ひとみさんはワンピースを着ていたんですね。そして後ろから襲われた。次に実行犯です。実行犯は「4人組、工作員1人と戦闘員3人」です。
惠谷実行犯は、朝鮮労働党調査部の工作員が現場指揮官になり、朝鮮労働党作戦部の戦闘員、いわば実行部隊の3人、この4人でいずれの事件にも関わっていることが判明しました。
西岡戦闘員というのは、安明進(アン・ミョンジン)さんがまさにそうですよね。彼は拉致の訓練を受けたと言っていました。次に手口です。手口は「口をふさぎ、手足を縛り、袋詰め」です。
惠谷この手口は先ほどの猿ぐつわもありますが、タオルのケース、あるいはガムテープのケース様々あります。そして身体の自由を奪うために、手は基本的に後手で縛る、同時に足も縛る。そして頭の上からすっぽりと袋をかぶせるというやり方です。
西岡次に管理です。
管理は「互いの存在を知らせず隔離」です。だから曽我ひとみさんはお母さんのことが分からなかったわけです。
惠谷この隔離というのは大変重要な要素を含んでいます。先ほど言いましたように、条件拉致は、例えば「カップルを連れてこい」という指令が出ます。カップルを襲った瞬間から二人を引き離します。袋に入れるのも、相手を見えなくする、相手の情報を与えなくします。そうすると誰しも不安に陥ります。
 そして船に乗せますが、その間も隔離して会わせません。北朝鮮に上陸します。そこでも会わせません。当然不安になりますから、相手はどうしたと聞くと、「日本にいるので心配するな」という言い訳で1年が過ぎ、2年が過ぎます。
 そうして突然に二人を再会させます。心配だった相手が目の前にいると、誰しも大安心します。そこで、「これは金正日将軍様の配慮である」。そして北朝鮮に縛り付けるわけです。その心理効果を金正日は考えた上で、カップルの隔離を襲った瞬間から実行しているわけです。
西岡計画的だったわけですね。結婚して子どもを産ませるという目的があったわけですが、曽我さんの場合は親子ですから、ひとみさんはジェンキンスさんと結婚したわけで、お母さんと会わされることは残念ながらなかったということではなかったかと思っています。最後に移送です。
 移送は「1、2回乗り換えさせて工作母船へ」です。通常工作員が潜入してくる場合は、いわゆる3段階、工作母船、工作子船、ゴムボートか水中スクーターが一般的です。
 こちら(会場に8メートルの写真パネルを展示)を見てください。これは1990年の10月に、福井県美浜町松原海岸に漂着した北朝鮮の工作子船です。約6割の大きさの写真です。今回、福井県警が持っていたこの写真パネルを、福井県警がわざわざ我々のために提供し、持ってきてくださいました。
 なかなか生々しいものです。このパネルと映像を見て、惠谷さんから説明をしてもらいます。
惠谷これがこの工作子船に積んでいたゴムボートですが、実は日本製です。二つのうち白い小さな船が工作子船です。パネルと同じものです。その右手に巨大な船がありますが、これが工作母船です。船尾に観音開きの格納庫があります。ここに工作子船を格納していたと思われます。
 これは工作母船の先端から見たもので、ここがブリッジです。工作母船が北朝鮮を出発して領海に入らないよう、その手前、約20キロくらいの沖合いに止めます。そして観音開きを開けて子船を出します。子船の上部構造は、漁船に偽装するため、この場合イカ釣り漁船ですがランプをたくさん付けています。ところが母船の格納庫は狭いものですから、子船を海上に出した後、漁船に偽装します。それから(領海に)侵入するわけです。
 (写真パネル・映像の)工作子船の船首部分に第一船室と名づけた小さな空間があります。ここが第二船室、ここが燃料室、ここにレーダーがあります。ここが操舵室。(子船の)この構造物は、通常は取り外してここに乗せている筈です。この(上に突出した)構造物は、下にもぐらせることができます。
西岡拉致被害者が袋に入れられて、子船で運ばれたとするとどこに入れられていたと思いますか。
惠谷まず第一船室。これは非常に狭く、こちらは少し広いんですが、近すぎるから、第一船室と操舵室の脇に袋詰めで放り投げておいたと思います。この子船はアメリカ製のエンジンを3つ付けています。3つをフルに動かし、条件がよければ(時速)100キロでます。
 この母船、子船、ゴムボートの1?3段階は、北から潜入する流れです。そして拉致をしたら逆のコースで帰っていきます。1978年当時は北朝鮮製の材質の悪いゴムボートだったと思いますが、その後日本から輸入して、いいものを積むようになりました。
西岡先ほど映像に出た、錆びた母船や子船は、実は奄美沖で自沈して引揚げられたものです。今、横浜(海上保安資料館横浜館<工作船展示館>)に展示されていますので、是非ごらんになっていただければと思います。
 35年前の夏、多くの日本人が、展望台、海岸、道路などで突然襲われ、口をふさがれ、手足を縛られ、袋を被せられたまま、ゴムボート、工作子船、工作母船で、無理矢理拉致されていきました。横田早紀江さんがよくおっしゃる「畑から大根を次々抜いていくような拉致」です。
 地村さんはゴムボートから子船に乗り換えるとき、「海に捨てられて殺される」と戦慄したと言います。被害者は思い出すのも嫌なことです。
 それでも曽我ひとみさんは繰り返し、拉致された状況を語り続けています。お母さんが心配だからです。
 拉致は外交問題、政治課題であるよりも、まず犯罪です。許しがたい国家犯罪です。被害者が味わった怖さを思い、いまだに彼らを救い出せない悔しさで一杯になります。なぜ、わが国がこのようなことを防げなかったのか、どうしてその後、今に至るまで被害者を助けられないのかと強く思います。
その悔しさを共有しつつ、報告を終わります。惠谷さん、ありがとうございました(拍手)。


西岡 この台風の中、遅れてかけつけてくださいました国家議員の先生方をご紹介します。
拉致議連副会長、参議院議員 衛藤晟一先生(拍手、以下同じ)
拉致議連事務局長代理 笠浩史先生
衆議院議員 小田原潔先生
ありがとうございました。



西岡それでは家族会の皆さんに訴えをいただきたいと思います。実はこの天候のため、有本明弘・嘉代子さん、市川龍子さん、斉藤文代さんが出てくることができなくなりました。有本明弘さんはメッセージが託されています。それでは一言ずつお願い致します。