国際セミナー「日朝拉致協議をどう打開するか」報告
◆金正恩を後継者として立てた金正日
金聖●(自由北朝鮮放送代表) 金正恩が国政を把握し軍を掌握する過程と共に、後継時代を開くにあたり最も大きな障害は、人民に自身をどのように紹介するかということでした。
金正日は金日成の後光をまとって自然に後継者として受け入れられました。いわゆる「米帝と日帝を相手に勝ち戦を続けた百戦百勝の鋼鉄の領将」、「人民の父」というイメージだけでも、彼の息子金正日が後継者になるのに反対する人はそんなに多くなかったのです。
しかし、金正恩は違いました。90年代の「苦難の行軍」時期に300万の人民が餓死した状況で、また、2007年まで復旧することが出来なかった破壊された経済は金正日の無能を確認するのに充分でした。そのような金正日が今回も自分の息子に政権を譲るといえば「反乱」までも予想しなければならない実情でした。
だが、金正日は2008年12月24日、千里馬製鋼連合企業所で金正恩の主導下に建設されたという電力電気炉を見て、わずか24才しかにならない金正恩を後継者に指名しました。また、彼は同じ年8月脳出血で倒れました。
金正恩の運命が逆になることもありえた非常にきわどい瞬間でした。2012年を目標にした「金正恩後継体制構築計画」が水の泡で終わるかもしれなかったのです。
しかし、どうなるか分からないのが人の運命だというではないでしょうか。脳卒中で倒れてから1か月以上過ぎた2008年9月末、金正日は徐々に活動を開始しました。10月初めには金日成総合大学と平壌鉄道総合大学の間サッカー競技を観戦したりもしました。
こうして2012年4月太陽節100周年に際して金正日から後継者として指名を受けようと考えていた金正恩の計画は、金正日の重病によって何と3年も前倒しになりました。
2009年1月8日、金正恩の25回目誕生日に、中央党組織指導部第1副部長李済剛(リ・ジェガン)は課長級以上中央党幹部前で金正恩を後継者に決めたという金正日の『特別指示』を伝達しました。だが、それに驚く幹部はほとんどいなかったということです。
(●=王へんに文)