今ここまで言える日本人拉致の全体像ー東京連続集会91全報告
◆変わった地形、特異な場所が海から目立つ
恵谷 治(ジャーナリスト、救う会拉致の全貌プロジェクト委員)
これは1974年に、渡辺秀子さんという女性の子ども(高敬美・剛姉弟)二人が北朝鮮に移送された福井県の岡津海岸です。東側には真珠浜という拉致現場があります。ここも真珠浜も沖合に青島という小島があります。
1974年当時、その島をどう利用したか分かりません。1977年から拉致が急に増えますが、その前に起きた拉致事件です。
これは石川県の宇出津です。(能登半島の東側で)富山湾になります。入江になっていて、現地では船隠しと呼ばれています。砂浜ではなく、岩浜です。地形的に珍しいだけで観光的に人気があるわけではありません。
韓光煕がここを確認しているわけではないですが、使われたのが1977年。この頃、こんな所をよく探し出したという意味で非常に驚きです。朝鮮総連の地方支部の中で、拉致とか工作員とかは言わず、変わった地形はないかと様々なやりかたで確認したのではないかと思います。そういう意味で、宇出津は特異な場所と言えると思います。
宇出津事件は77年9月ですが、実は74年までは能登半島の西側ばかりを使っていました。つまり津軽湾の東側を使ったのは77年が初めてです。これはどういうことかというと、国鉄能登線が廃線になって西側から入ることが困難になったからです。
この調査では鉄道の廃止も重要な要素として見ておかなければならないと思いました。
これは鳥取県米子の弓ケ浜と呼ばれるところです。松本京子さんが拉致された現場です。広い白砂青松の海岸で、砂浜と松林が延々と続いています。そして集落から海岸まで一本道があります。その一本道で、さきほど言った目撃された老人に鉄拳をくらわせて何針も縫う大けがを負わせました。そして松本さんをかついで海岸まで一直線に走って逃げた。
これは新潟県の寄居浜(横田めぐみさん拉致現場)です。今はテトラポットがあって美しい浜にはなっていませんが、昔はなかったと思います。条件拉致だと説明しましたが、上陸した後、若い娘をさらえという命令だったと思います。
この寄居浜には河口がありません。あるとすれば3キロ向こうに信濃川があります。寄居浜で感じたのは、かつてあった日本海タワーが沖合からよく見えたのではないかということです。
同じように米子の弓ケ浜もしおだいという大きな旅館があった。そういう顕著な目立つものがないとなかなか現場を特定することができないのです。これが条件拉致の問題だと思います。
工作員たちは、潜入、脱出する地点をルート地点と呼んでいます。韓光煕が書いていますが、その地点を決めるのは北朝鮮からの指示だということです。船長が新潟の沖合をうろうろして、「あそこがよさそうだ」と決めます。そうするとある程度の写真を日本に送ってきます。それを元に韓光煕のような人物が現地に行って、警察が近くにないか、交通は便利かなど様々なことを調べさせてルート地点を設定します。
今回108か所調査した結果から言いますと、陸からの調査だけでなく、最終的には海上から見ないと、なぜそこを脱出・潜入ポイントにしたのか分かりにくいというのが実感でした。
その一つが寄居浜で、海から日本海タワーの建物がどう見えるのかを調査してみたいと思います。
これは地村さんたちが拉致された福井県小浜市の真珠浜です。この上に公園があります。戦闘員たちが、沖合の青島からゴムボートでここに上陸し、この斜面を登るとこの公園になります。
拉致したあとここをかついで降りて地村さんをここからボートに乗せて青島方面へ。地村さんはどこか分からないそうですが、ボートを乗り換えた、と。ここは真珠浜の一の浜で、ゴムボートをうまく隠せば、上の国道からは見えません。
この公園に行くとアベックがいるはずだから潜入しろと言われても、目標が大変難しかったと思います。
これが一の浜の左隣の浜で二の浜です。遠くに青島が見えますが、船隠しのような窪みがあります。ここに隠れていれば、まず周りからは分かりませんし、分かっても漁船が何かしているという風に見えます。また浜の黒っぽいところは、上から見ても何をしているのか分かりません。
二の浜は、地村富貴恵さんが袋から出されてゴムボートに積まれた。本人はどの浜か分かっていません。カップルは敢えて離して、それぞれに連れて行った。