拉致被害者救出運動20年特別集会全記録
◆日本は当たり前の国家ではなかった
西岡力(救う会会長)
本当に長い年月がかかってしまっています。先ほど、飯塚さんと話をしましたが、田口八重子さんは22歳で1歳と2歳の子どもをベビーホテルに預けたまま拉致されましたが、今60歳です。今年の誕生日が来ると61歳。ちょうど私と同じ年齢です。
40年前、私は何をしていたか。大学4年生でした。まだ社会に出ていなくて、自分の人生はどうなるんだろうなと思っていた。私はその後大学院に行き、韓国で勉強して、大学教授になり、今還暦を迎えて、そろそろ老後を考えるという歳になってしまいました。
その40年間を奪われたまま、まだ取り戻すことができていないというのが拉致問題です。
今朝の新聞やテレビ等でも少し出ていましたが、運動を始めて20年経って、初代代表の横田滋さんが、昨日の記者会見に来られなくなった。また当初から運動していた有本嘉代子さんも、このところ出てくることができなくなっています。
ただ歳をとっただけではないと私は思っています。被害者を救うためにやれることは何でもやるという活動をした結果、命をすりへらして、会見にも出ることができないくらい疲れ果てている。
最近の滋さんの話ですが、「悔いはない」と。多分、嘉代子さんも同じ気持ちではないかと思います。できることを全部やってきたという自信がある。しかし、まだ娘の顔を見ることができない。それがこの40年間であり、そして20年間でした。
お配りした(昨日の)声明にも、「無念で悔しくて言葉がない」と書きました。最初の20年間は、家族の人たちは、「静かにしていなさい。騒いだら北にいる被害者が危うくなる」と言われました。
その中で有本さんは何回も上京されて孤軍奮闘されていました。しかし、この国は確実な証拠が当時あったにも関わらず、家族会・救う会ができるまでは、一部の例外を除いて、政治家も外務省もマスコミも被害者を見捨ててきました。
私は1991年に文芸春秋社から出ている「諸君!」という雑誌に、「日本人が拉致されている」という論文を書きました。学者として一番最初に書いたと思いますが、その時言われたのは、「どうやったら被害者を助けられるでしょうか」ではなく、「西岡先生身の危険はないですか」でした。警察の関係者や公安調査庁や自衛隊の関係者から言われました。
日本の学者が、日本語で、日本の雑誌に、「日本人が拉致されている」と書いたら身の危険がないかと心配される異常な空間があったんです。それを打ち破ったのは、20年前、<家族の人たちが名前を出して訴えたら、向こうにいる被害者はもしかしたら証拠をなくすために殺されるかもしれない>という緊張感がありながらも、世論に訴えようという決断をし、実名を出して写真を公開し、活動を始めたからです。タブーが解けたのです。
私は全国で講演しながら繰り返し言っています。日本が当たり前の国家であれば、日本人が拉致されている事実が分かった段階で、今日加藤大臣が来てくださっていますが、担当大臣ができていたはずです。
少なくとも1988年3月の、参議院予算委員会における梶山(静六)答弁で、「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚だ」と言った。この後担当大臣ができて、対策本部ができて当たり前だったのです。
残念ながら我々の経験則で、残念で悔しくてしょうがないことですが、我が祖国は国民の怒りがないと被害者を救い出す体制を作らなかったのです。事実が明らかになっただけでは足りなかったのです。それを打ち破ったのが、家族会の結成でした。
私は学者として、家族会結成の6年前に論文を書いていましたから、大変厳しい問題だということをよく分かっていました。そういう中で、家族の人たちが、「自分たちはどうなってもいい。自分たちが犠牲になるなら向こうにいる被害者を助け出す」というのは容易な決断なんですが、そうではないんです。
日本にいる家族の決断によって、向こうにいる被害者が逆に危険になるかもしれないという本当に厳しいぎりぎりの決断を20年前にされたのを見て、家族の人たちは世論に訴えるという決断をされたわけですが、これで世論が盛り上がらなかったら日本はもう国家でも何でもないと思って、我々専門家や心ある国民が集まって救う会を作りました。
そして20年運動をしてきました。最初の20年と同じだけ経ってしまって、残念ながら5人しか救い出すことができていません。飯塚さんがいつもおっしゃいますが、「節目なんかないんだ」と。「20周年、次は25周年と何を準備するかなど、こんなバカなことをするな。20年の節目で集会をすること自体異常なことだ」と。
しかし今日、20年間活動してきたけれども、5人しか助け出せなかったというみじめな現実を直視して、今日は来られていない横田滋さんが言われたように、我々も、できるのにやらなかったということがないように、できるだけのことは全部やったと。そういう面で悔いがないような活動をしなければならないと思っています。
ここに集まってくださった皆さんは東京集会で毎月集まってくださっています。自分ができることなら何でもして、助けたいと思っておられる。向こうにいる被害者の人たちがどんな気持ちで40年を振り返って耐えているか。それを想像すると胸がはりさけるような辛い気持ちになります。
しかし、わが同朋が彼の地で、心の中で東を見て、「いつ助けに来るか」と我が祖国を待っている以上、あきらめることは絶対にできないという決意を持って、今日の集会を始めたいと思います。宜しくお願いいたします(拍手)。