第3部 北朝鮮による拉致の全貌(1)
3-1 櫻井よしこ
午後のセッションを始めたい。午前中は色々なことが話された。初めて国際社会が連携して拉致解決につなげていこうという連合組織ができたことは大きな成果だと思う。第2セッションでは、北朝鮮は拉致について何をしてきたのか、その全体像を歴史的にも地理的にも国籍的にも考えてみたいと思う。まず、金明浩氏に、朝鮮戦争中の拉致被害者の実態について研究されてきた金明浩教授に報告をお願いしたい。
3-2 金明浩・韓国江陵大学校経営学科教授
朝鮮戦争中の拉致被害者実態の実証的分析に関する研究
北朝鮮に拉致された朝鮮戦争中の拉致被害者数に関して、大韓赤十字社は7,034名とし、この中の337名が生存していると発表した。しかし、「6・25戦争拉致被害者家族協議会」は、大韓赤十字社資料の11倍を越える82,959名と発表した。
金大中政権は、戦後の拉致被害者数は3,790名であり、このうち480名がまだ北朝鮮に残留しているものと把握している。しかし、金大中政権は朝鮮戦争中の拉致被害者については全く言及しなかった。朝鮮戦争中の拉致被害者については不明確なところがあるが、拉致被害者の人権は徹底して無視されてきた。過去58年間、政府は拉致被害者について、公式案件として北朝鮮に提示しなかった。
現在、拉致被害者に関する5点の名簿が確認されている。まず、「ソウル特別市被害者名簿」がある。これは1950年11月に作成された。ここには4616人が収録されている。次に、申翼熙先生の遺品の中に、1952年に作成された「6.25事変被拉人士名簿」というものがある。また、韓国政府によって発行された「6.25事変拉致者名簿」は、1952年10月に作成され、8万2千名余りが収録されている。私は2002年6月にこれをデータベース化した。4番目に内務部治安局が1954年に作成した「被拉致者名簿」には17,940名が収録されている。最後に、大韓赤十字が作成した「失郷民登録者名簿」(1956年)があり、ここには7,034名が収録されている。
私はこの5つの名簿をすべてデータベース化した。112,687名のうち、重複を除くと96,013名であることが判明した。このうち女性が1,842名含まれていた。
被害者は、ソウルを含めた首都圏で42%が集中している。年齢別に見ると、16歳から30歳までが全体の55%を占めている。1949年度男性の年齢別数と1950年度に拉致された年齢別男性の比率を分析すると、21歳から30歳では3%強、100人のうち3人が拉致されたことになる。また、職業別で見ると、国会議員、判事、医師などソウルを中心とする首都圏の知識人たちが拉致被害の中心となっている。1953年の資料によると、韓国の医師数は6000人だったが、朝鮮戦争中に拉致された医師数は368人だった。6.1%が拉致されたことになる。拉致された時期については、朝鮮戦争開始直後の1950年7月から9月まで3か月の間に、被害者の88%が拉致され、計画的な拉致であったことを示している。拉致された場所で見ると、自宅または自宅の近所で拉致された人が全体の80%もいた。
職業と拉致された場所との交差分析を行った。これは、事前に情報を入手した上での計画的拉致を裏付けることになった。また、拉致された地域と時期の関係性について分析したが関係がないことが分った。職業と拉致の時期については、関係があることが分った。意図的な目的が背景にあったということが分る。
このような内容を、2006年8月、「東亜日報」に発表した。その際、北朝鮮は「労働新聞」の社説を通じ、「拉致被害者はいない」という内容を発表した。拉致問題の解決にはまずこのようなことを先に解決しなければならないと思う。拉致被害者の人権を回復しなければならない。また、被害者に対する速やかな送還を求めたい。政府はより積極的な姿勢をとらなければならない。北朝鮮に対し、認識の変化が起きるよう段階的に対処しなければならない。また統一することにより、すべての問題を解決しなければならない。
【参考資料】
◆朝鮮戦争中の拉致被害者に関する5つの資料について(金明浩氏提出資料から抜粋)
「ソウル特別市被害者名簿」
「6・25戦争拉致被害者家族協議会」が、古書収集家から入手。知識人が強制的に拉致されたことが明確。作成日は1950年12月1日。
「6.25事変被拉人士名簿」
1952年に結成された「6.25事変被拉致人家族会」が作成。当時の国会議長申翼熙氏に提出されたものを、「6・25戦争拉致被害者家族協議会」が入手。
「6.25事変拉致者名簿」
「6・25戦争拉致被害者家族協議会」が、2002年2月、国立中央図書館で発見。作成経緯は、有識者等多数が拉致されたため、当時の政府が国家的人名被害と判断し、全国の行政機関に指示して実態調査を行ったもの。データベースが一般公開されている。1952年頃政府が作成。
「被拉致者名簿」
「6・25戦争拉致被害者家族協議会」が、マイクロフィルム状態で政府に保管されていたものを、2003年、引き渡してもらったもの。1954年内務部治安局作成。
「失郷民登録者名簿」
「大韓赤十字社」が拉致被害者を把握するために作成。「拉致被害者家族会」が、1956年に全国的に再調査を行い、7,034名を追加したもの。拉致被害者を「失郷民」としたのは、北朝鮮に協力を求めるための窮余の策。1956年6月15日から8月15日まで2か月間調査。
◆地域別拉致被害者について
ソウル市からの拉致が圧倒的に多く、千名につき30名が拉致された。他の地域は、江原道千名につき19名、忠清道14名、京畿道13名、全羅道6名、慶尚道4名で、全国平均では千人につき9名が拉致されたことになる。1949年の人口は2017万名。
◆年齢別拉致被害者について
16歳?20歳 20,409名(21,16%)
21歳?25歳 32,357名(33.70%)
26歳?30歳 19,079名(19.87%)
拉致被害者は16歳?30歳の若い人に集中しており、計74.73%
60歳以上の高齢被害者が746名
◆性別拉致被害者について
拉致被害者96,013名の内、女性被害者は1,842名で1.9%。男性が98.1%。
◆職業別拉致被害者について
国会議員(63名)、裁判検事(90名)、弁護士(100名)、警察(1,623名)、公務員(2,919名)、軍人・軍属(879名)、教授・教員(863名)、医師・薬剤師(526名)、農業(58,373名)、商業(4,797名)、労働者(3,984名)、技術者(2,835名)など。
知識人・指導者が拉致された比率は、当時の人口に比べ極めて高い。
農業・労働者は、戦後復興のため、男性を対象に拉致したものと思われる。
司会 櫻井よしこ
今の分析から驚くべきことが分った。どういう人を拉致するか、当初から計画的な犯行だったことが極めて明らかになったと思う。
3-3 洪 熒・早稲田大学客員研究員
金正日と朝鮮労働党のテロリズムの根源と構造-拉致テロを中心に
共産主義の独裁体制の特徴は、人間に憎悪心を植え付けるという基本がある。初めは共産主義からだろうが、なぜ金日成・金正日体制が最も野蛮でありそうした手段と方法を用いたのか、歴史的に証明したいというのが今日の発表内容だ。
朝鮮半島の北半部は、歴史的に近代的国民国家としての民主主義的価値を一度も経験したことがない。粛清とテロの歴史であった。人民民主主義の「人民」は反動分子ではない人を指す。つまり反動分子は共産主義に反対する者だ。共産主義者というのは、共産主義に賛同する人だけを残すのが人民民主主義の社会を構成するということであり、北朝鮮は人民民主義国を建設すべく当初から社会の敵対分子である反動分子を粛清した。
ソ連軍の進駐直後から、北朝鮮では対南工作組織を共産党内に作った。金日成政権になって60年たった。そして、金正日が内部的手続きなしに、世襲的に権力をとってきた。これは朝鮮半島の歴史はもちろん、世界的な歴史を見ても、史上例を見ない悪の体制であると思う。
北朝鮮は最初からスターリン主義国家だった。金日成と朝鮮労働党のもともとの指導者であった朴憲永をモスクワに呼び面接し、より忠誠心の強い金日成を北朝鮮の指導者として決めた。「朝鮮人民民主主義共和国」という国名もロシア語でモスクワで作り、それを平壌に送って朝鮮語に翻訳したという経緯は下斗米先生の本に出ている。
国際共産主義の下手人だった金日成は暴力で韓半島の赤化を試みたが失敗した。第二次大戦以降、新生独立国のほとんどが社会主義体制を名乗り、一部だけが自由民主主義を採択した。そうした国々を暴力で打倒しようと試みて、それに失敗した例が韓国であったと言える。
韓国への赤化で暴力を動員したのは、まずその前段階として、日本が韓半島を赤化しようとして暴力を使ったが、その後北朝鮮による暴力があった。しかし、戦争に失敗して四大軍事路線というものを1962年にしいた。韓半島赤化統一の基本戦略である。その後三大革命路線を1964年に採択し、それから北朝鮮が動員可能なすべての人的、物的資源を投じ、軍事力強化とテロリズムを追求した。
金日成は、「今は米帝国主義者が虚勢を張っているが、世界の革命的人民らが襲いかかり手足を斬ってしまえば、米帝国主義は力を使うことができなく、結局はくたばってしまうだろう…、小さい国々が襲い掛かって米帝国主義の頭と脚を各々切断し報復しなければならない」と教示した。この3大革命力量強化路線は、金正日が大学卒業後に、党の革命事業を行った時と一致する。北朝鮮そのものはその後兵営国家に、つまり国家そのものが工作国家、軍事国家となる。三大革命によって世界的な規模での工作を行おうとして工作国家として登場し、朝鮮戦争の時に完全に国家化する。
在外公館の外交官たちにさえ、運営費を送らなかったため、60年代初めから外交官たちが密輸を通じて経費をまかなおうとして、それぞれの国から追い出されます。自ら調達した経費を金正日親子への「忠誠資金」として上納するように強いられた。そうした体制になってしまった。
反帝国主義、反米を標榜して、全世界からテロリストを北朝鮮に連れてきて訓練させ、また教官を全世界に派遣し、暴力を輸出することになる。北朝鮮は特殊なテロリスト5,800人以上を訓練した。
冷戦時、北朝鮮はモスクワの下請業者だった。本格化したのは、アメリカがベトナムに介入し戦線を拡大していったのと歩調を合わせている。韓国軍の歩兵部隊がベトナムに派遣された頃は、金日成も韓国内に第2の戦線を作った。そして反帝・反米の闘争を支援する全世界的に広範な活動を行った。その証拠は、冷戦が激しくなった時に、そういうものが増加し、冷戦の収束とともに北朝鮮の対外的な軍事計画が消滅していく。
モスクワの下請け業者としては、北朝鮮のみならず東ドイツ、キューバも各地で代表的な活動を行っていたが、面白いのは、北朝鮮の機関紙「朝鮮新報」が2000年4月3日に記事を掲載している。「人民武力部が、1945年8月から94年7月の金日成の死亡時まで、4か国の革命戦争を支援し、53か国に軍事的支援をした」と自ら公開した。4つの戦争というのは、国共内戦、ベトナム戦、中東戦争の時にシリアとエジプトを支援したという内容だ。
これらは革命戦争への支援で、イラン・イラク戦争ではイラン側に参戦したが、これは革命戦争ではなかったので、4つに含めなかった。その他、情報戦として全世界的な規模で暴力を輸出し介入した。主な舞台はアフリカ、南米、アジア。そして北アイルランド共和国でのゲリラ活動については最近、アメリカが偽ドルを流通させたとして指導者を逮捕したことがあったが、その他にも、ドイツ内のテロ団体、アメリカ内の分離独立地域といった先進国でもテロリスト支援を行ってきた。
北朝鮮は、「9.11」の前に、首領(金正日)を決死擁衛するため「人間爆弾」を製造した。つまり、自殺特攻隊を創設した。平壌で公開されたフィルムで、このような自爆テロ部隊が放映されたことがあった。「人間爆弾」、人間が乗っている飛行機を爆弾として使ったということが、「9.11」テロと平壌との関連性を物語っている。オサマ・ビン・ラディンは20代の時から、北朝鮮のテロ教官から訓練を受けていたと言われている。アメリカの資料でもこのことが証明されている。
朝鮮労働党は、このような野蛮なテロが可能な独裁体制だ。憲法には、朝鮮労働党が国を指導すると書いてある。朝鮮労働党は北朝鮮だけに存在する唯一思想体系の十大原則というのを持っている。また、唯一思想体系というものがあり、北朝鮮の公式的な世論として確認されている。この唯一思想体系の十大原則、普通の暴力集団でも見かけられない、特殊なカルト集団に見受けられる典型的な例であると言える。
野蛮な統治を正当化すべく、外部の世界には必ず敵が必要だ。それなりの教育水準につれて、北朝鮮でもインテリ階層が増えていくが、それを抑えるにはより暴力的な方法が必要になる。後継体制を確立することで、暴力機構とも言える国家保衛部が創設されたのが73年だ。唯一指導体制を守るためだ。
北朝鮮はよく、孤立した情報が統制された社会と言われる。我々も知らず知らずのうちに北朝鮮にだまされてきた。北朝鮮は決して孤立した体制ではない。北朝鮮は闇の世界では全世界とつながっている。北朝鮮が孤立しているのは善の社会からで、まるごと孤立しているのは間違いだ。
北朝鮮は心理的、暴力的装置として例えば、洪水が起きた時には、家族を救うよりも、金正日、金日成の肖像画を避難させなければならない。子どもたちに親を告発するように教える。金正日、金日成を称えるスローガンを頭に刻み込ませる。だから罪の意識や正しい価値観とは縁遠くなっている。物理的な暴力装置により、これらのものを統制してきた。
金正日について知らなければならないことがある。金正日というのは、国家の最高指導者が、同時に情報機関を指揮している唯一の独裁絶対者であり、30年間この状況が続いている。唯一指導体制、金正日の息づかいに逆らうことは一切いけないということは、この場でも何度も証言されたが、拉致工作もすべて金正日の指示によって、唯一指導体制のもとで行われてきた。
金正日は対南工作を直接掌握した。つまり対南工作、海外対策は知能的に、体系的に巧みに行われてきた。金正日が以前の工作活動をすべてまとめたのだ。その内、韓国内に作った地下組織が韓国政府に摘発された。きっかけとなったのは北朝鮮からきた工作員が知り合いに会い、それを抱きかかえる段階で、それが成立せず、結局申告されてしまった。そしてスパイ組織が一網打尽にされた。結局、金正日が指示して、なぜ失敗したのか、なぜ拉致しなかったのかが追及された。
金正日は、日本のパスポートを大量に偽造した。日本のパスポートは全世界でうまく使われていたが、ただ日本のパスポートだったので、日本に入るのは不可能だった。そこで真の日本のパスポートを入手する必要があった。本当の日本人から手に入れることが必要となった。平壌の工作機関のみならず、それを指示した日本の総連、特に留学生同盟という組織は、日本人の身分を得るために早くから活動を開始した。日本にいる北の工作員のみならず、日本にいる総連の活動組織が、日本人のパスポートを持って海外に行くことも多発した。
すべての拉致事件の根源は、南朝鮮解放革命という目的から始まった。朝鮮労働党の最高の目標は、韓半島全域で韓国を含めて民族解放、人民民主主義の達成としている。そのためには、韓国内で目標を達成するために、地下組織、地下党を形成することが最も重要な課題だ。韓国に潜入した北の工作員は、初めから、適切な工作員を見つけたら北に持ち帰る、帯同越北というのが常識であった。目標が達成されない場合は、帯同帰還、拉致誘拐、もしくは抑留する。朝鮮総連の幹部であっても、北朝鮮に呼ばれ、そのまま抑留されてしまった人が多々いる。
韓国は、1945年からソウルオリンピックまでの冷戦時代は、完璧な島国の一つであった。アジア大陸と断絶していた唯一の国家であった。東西交流がなかった冷戦時代に完全な島国であった韓国は、南北朝鮮が唯一地理的に共有できた空間は日本だった。日韓国交が正常化した時、北朝鮮のスパイの4分の3は日本を経由している。日本には、朝鮮総連という労働党の在日分局が活発に機能していたので、総連を最大限動員した。平壌の諜報機関が、革命事業と結びつけ活用するために総連が必要だった。
拉致問題で最も胸が痛むのは、北朝鮮のテロリズムに韓国政府が断固として対処し、阻止できなかったのかという問題だ。韓国は自由民主主義国家だったので、適切に報復する手段をもっていなかった。冷戦時代は、互いに東西陣営が脅威を与え合う時代だったので、外交手段で解決できる状況ではなかった。例外的に安保国家であったイスラエル以外は、軍事的手段で報復することは難しかったのが現実だった。
韓国でテロ犯罪の被害者は、また朝鮮戦争の拉致被害者も、名分上は数が公表されているが、実際はそれは一部にすぎない。この480数名というのは、事件として公開された拉致被害者の一部に過ぎない。また、日本の特定失踪者問題調査会のような民間組織の活動もないので、海外で行方不明になった人が北朝鮮に拉致されたかどうかも分からない状況に現在も置かれている。
金正日体制のテロ活動は、全世界に被害を及ぼしたが、北朝鮮そのものへのテロでもあった。テロリズムによって北朝鮮はすべての人的、物的資源を枯渇させた。北朝鮮自らが食糧を海外に依存することになり、慢性的食糧難にあえぎ、南北間は60年でまったく異なる民衆のようになってしまった。少なくとも現在、南北の平均寿命は12歳の差がある。北の方が早く死亡する。南北の軍人の背丈を見ても、15センチほど差がある。60年間テロを行った結果は、自国民に対するテロにもなった。
金正日の悪事は隠そうとしても、その悪事に真実と善が残っていればあばかれてしまう。従って、その真実と善をすべて隠すために、嘘でぬりかためなければならない。平壌の人口も隠し、金正日の妻が何人なのか、子どもが何人なのか、家族写真さえ公開されたことがない。自らの悪事を隠すために、すべての真実と善を隠し嘘でぬりかためているのだ。
拉致された方の消息が分からない。労働党の3号庁舎に召還された革命戦士の運命も家族に知らされないことが多いという。どこに行って工作をしているのかも分からない。皆さんだけが被害者なのではなく、北朝鮮の革命戦士、3号庁舎の関係者の運命も分からないのだ。彼らも金正日に拉致されているのかもしれない。
今日申し上げたことは、我々が知りえる限りのことだ。北朝鮮の体制を、テロリズムの構造を究明する一つの端緒にすぎない。金正日王国が打倒された後に全貌が明らかになるだろう。そして多くの犯罪が明らかになると思う。
【提出論文】
金正日と朝鮮労働党のテロリズムの根源と構造-拉致テロを中心に
洪 熒(早稲田大学現代韓国研究所客員研究員)
金正日体制のテロリズムの根源
北朝鮮の歴史は野蛮的独裁体制の確立のための粛清とテロの歴史である。韓半島の北半部は歴史的に近代国民国家として民主主義的諸価値を一度も経験したことがない。封建国家から殖民地になり、共産主義体制を押し付けられた。社会主義的において人民民主主義の「人民」とは「反動分子」(共産主義に反対する者)でない人を指す。北朝鮮は人民共和国の建設のため、社会の敵対的要素である「反動分子」を先手を打って一掃した。ソ連軍の進駐直後から対南工作のための組織が共産党の中に創られた。
金正日独裁体制は、1945年8月ソ連軍が北朝鮮を占領し、スターリンにより北朝鮮の指導者として指名された金日成独裁体制が、内部的政権交替すらなく、権力世襲で60年間も執権してきた野蛮的暴圧体制である。韓半島の歴史上金日成-金正日体制ほど悪魔的で、国内外的に致命的な害毒を及ぼした独裁体制(の歴史)は無い。
北朝鮮は最初からスターリン主義国家であった。スターリンは金日成と朴憲永をモスクワに呼び面接し、より忠誠心の強い金日成を北朝鮮の指導者として決めた。「朝鮮人民民主主義共和国」という国名もロシア語で作り、平壌へ送って朝鮮語に翻訳した。
国際共産主義の下手人だった金日成は暴力(韓国内暴動およびパルチザン闘争、6.25動乱)を通じ、韓半島の赤化を試みたが失敗した。金日成は「6.25戦争」の敗戦の恥辱を雪ぎ、自分の権力基盤を強めようとする焦りと野蛮的な衝動に駆られ狂的な極左冒険主義と韓国の赤化統一に執着した。
韓半島の赤化統一のための基本戦略として「4大軍事路線」(1962.12、全人民の武装化、全国土の要塞化、全軍の幹部化、全軍の現代化)と「3大革命力量(北朝鮮、南朝鮮、国際的革命力量)強化」路線(1964.2)を採択し、以後北朝鮮が動員可能なすべての人的,物的資源を投じ、軍事力強化とテロリズムを追求した。
金日成は、「今は米帝国主義者が虚勢を張っているが、世界の革命的人民らが襲いかかり手足を斬ってしまえば、米帝国主義は力を使うことができなく、結局はくたばってしまうだろう…、小さい国々が襲い掛かって米帝国主義の頭と脚を各々切断し報復しなければならない」と教示(1968年10月8日)した。この3大革命力量強化路線は金正日の党事業開始(1964)と一致する。
?北朝鮮の社会全体が兵営国家、工作国家、遊撃隊国家化した。
*在外公館の外交官たちさえ密輸で公館の運営経費を自ら調達し、さらに金正日への「忠誠の資金」を上納するように強いられた。北朝鮮外交官らが平壌の指示に服従せざるを得なかったのは、彼らの肉親が平壌に人質として捕らえられていたためだった。
?労働党と人民武力部に海外工作機構を設置。
?反帝・反米を標榜し、第3世界を中心としてゲリラやテロ要員を北朝鮮に招いて訓練しテロリストを養成(5,800人以上)し、テロや軍事教官を各国に派遣し、全世界に紛争を暴力を輸出。(添付参照)
* 平壌側は冷戦時モスクワの忠実な下請業者だった。1945年8月から94年7月金日成の死亡時まで4ヶ国の革命戦争(国共内戦、ベトナム戦、中東戦争の時のシリアとエジプト)を支援し、53ヶ国に軍事的支援をしたと自ら自慢した。(外にもイラン・イラク戦争ではイラン側に参戦)。
* 第3世界の国々や反政府ゲリラおよびテロ集団に数百万ドルの資金と、莫大な量の武器と弾薬を支援した。北側の対外テロ支援は彼らの経済力が枯渇するまで続いた。オサマ・ビン・ラディンも20代の時北朝鮮のテロ教官から訓練を受け、今も国際的なテロのネットワークを通じ紐帯関係を維持しているという。
*北側は「9.11」の前に、首領(金正日)を決死擁衛するため「銃爆弾」になろうとのスローガンで神風式の自殺特攻隊を空軍に創設(1998年)したという。
*北側は昨年の核実験で国際的制裁を受けている中でもエチオピアに武器を輸出し、最近にもスリランカの叛軍側に武器を渡そうとして発覚した。また、イスラエルがシリアを攻撃した事件(2007年10月)も北側とシリアの間の長い軍事協力関係が核技術や装備を移転する次元にまで発展したといわれている。
野蛮的独裁体制の構造
朝鮮労働党は「超憲法的権力」(党が国家を指導)で、その党の上に首領が君臨する。
「唯一思想体系(首領体系)10大原則」(1967.5.17労働新聞の登場、1974年2月党第5期8次中央委総会で公式採択)を通じ、金日成(首領)の絶対的独裁体制を確立。
「唯一指導体系」(1974年10月公式化)を通じ、金正日後継体制と領導体系(金日成-金正日共同政権)を確立。
野蛮的統治を正当化するためには外部世界の敵が必要であり、またその敵との無慈悲な闘争を強調しなければならず、北朝鮮もそれなりに教育水準の向上につれてインテリ階層が増えるや、暴圧もより一層増大することになる。
* 後継体制の確立過程で暴圧機構の国家保衛部(1973年2月)が創設された。
野蛮的独裁体制は閉鎖社会であることを前提とし、「悪の生態系」の維持のために、
?情報統制・操作および虚偽と洗脳など心理的暴力装置
?物理的暴力装置(食糧配給、旅行統制、収容所など)
?外部の圧力による体制の崩壊を防ぐための強力な軍事力、が必要だ。
金正日は地球上で「国家の最高指導者」でありながら同時に情報機関を(「唯一指導体系」によって)日常的に直接指揮する唯一の絶対独裁者だ。金のお言葉は絶対的に執行すべき最高の法である。
金は後継者として労働党の実権を掌握した後、党の対南工作30年を検閲・総括する方法で3号庁舎を支配(1976年)し、「指導核心布置」など新しい対南工作の方針を指示した。金正日により北朝鮮の対南(海外)工作はより知能的で精巧化し、奸巧で大胆になる。
*金正日は対南工作の総和(分析批判)過程で、「統一革命党工作」の失敗(発覚)の端緒になる「荏子島スパイ事件」の主犯の鄭泰黙の妻を北に連れて(拉致して)来なかった誤りを指摘。
* 工作員の現地化教育の徹底や外国人教官の確保を指示。
*辛光洙に日本人の原敕晃の拉致を直接指示。
*日本のパスポートを大量偽造したが、偽造した日本のパスポートでは日本への入・出国が不可能なので、真正の日本のパスポートを持つ日本人化に努力。朝鮮労働党の中央党の予算は3分の2が「3号庁舎」(革命のための情報・謀略機関の庁舎)の予算だったともいわれる。
つまり、拉致(テロ)の根源は南朝鮮解放革命という目的から始まった。朝鮮労働党規約の前文には、党の任務を韓半島の全域で「民族解放人民民主主義革命」の達成だと明記している。そのため韓国国内に革命のための「地下党」を建設するのが最も重要な課題で、韓国に潜入した北の工作員は適切な対象者が見つかると「帯同越北」(帯同帰還、*誘拐・拉致!)が常識だった。
韓国は1945年からソウル・オリンピック(1988年)までは完璧な島国であった。韓半島の歴史上初めでアジア大陸と完ぺきに断絶し海洋国家・海洋勢力の一員として国家を発展させてきた。冷戦時期に韓国と北朝鮮が共有した唯一の地理的空間は日本だった。拉致問題でなぜ日本人被害者が多かったのかというと、それは日本が韓国と北朝鮮が共有できた唯一の地理的空間であったということと無関係でなかった。冷戦時平壌側が韓国へ浸透させた「迂回スパイ」の四分の三が日本を経由したという。日本には朝鮮総連という朝鮮労動党の在日分局が活発に機能していたから金日成と金正日は朝総聯を最大限動員した。
韓国政府が冷戦の時、北側のテロリズムに断固として対処(抑制・報復)できなかったのは、報復手段が不足しただけでなく、冷戦それ自体がそれを許さなかった。つまり、冷戦は東西陣営間に相手側の生存を拒否する極端な敵対的状況だったので、陣営間の対立を「文明社会のルール」を尊重する「外交的手段」で解決するということはほとんど不可能だったため、戦争も辞さない物理的報復の他にはテロリズムに対する効果的な抑制手段がなかった。報復は報復を呼ぶので、イスラエルのような例外的な安保国家でないと報復を通じたテロリズムの抑制が難しかったのが現実だった。
テロリズムの結果
韓国の場合、冷戦以来北側の対南工作やテロ犯罪の被害者(犠牲者)になった韓国国民がどれくらいなのかはまだ分からない。全貌を明かす資料が統計として発表されたこともなく、日本の特定失踪者問題調査会のような組織的な民間活動もないからである。被害規模を把握する作業を間違えれば(実際より少なく把握されれば)被害者を救出し犠牲者らの悔しさを晴らしてあげることの甲斐が減ることになる。
外部世界に向けたテロは実は自分自身、内部に向かったテロである。テロ国家のテロ犯罪は結局自分の国民に対するテロに帰結する。金日成・金正日テロ体制は、北朝鮮のすべての人的・物的資源を枯渇させた。同族を虐殺してきた金日成・金正日独裁政権は自由精神のような人間性を抹殺するだけでなく、北朝鮮住民の医学的劣等化をももたらした。
大規模政治犯収容所が必要になり、住民の生活水準は日本の植民地時代より後退した。人民の15%が餓死し大多数の国民が慢性的栄養失調になり、わずか半世紀の間平均寿命が韓国より12年も少なく、南・北の軍隊の兵士たちの背も15センチの差ができた。
悪がその正体がばれないように悪事を隠すためには、悪事を隠すことだけでは不十分で、悪事を露顕させる真実まで必ず隠さなければならない。金正日体制の下ですべての真実は秘密だ。平壌市の人口も秘密であり、神の地位の最高権力者の金正日の妻や家族が何人なのかも秘密である。金正日の仲むつまじい家族の写真さえ公開されたことがない。
韓国、日本、その他いろんな国々から拉致された我らの身内(被害者)の状況が分からないように、北朝鮮の中の数多くの政治犯の運命に対し彼らの家族は知らない。金正日の「3号庁舎」に召喚された多くの北朝鮮の「革命戦士」(工作員)らの運命もその家族に知らされないことが多いそうだ。南北のみんなが金正日に拉致され、あるいは人質になっているのかも知れない。
私たちが金正日独裁体制の悪事を糾明するためには、善と悪の対決という次元での努力をしなければならない。この発表内容は金日成・金正日王朝の悪事を糾明するほんの端緒に過ぎず、この悪の王朝が打倒されてこそ全貌が明らかになるだろう。 遠からず金正日が退場すると、今日発表した内容は書き直すようになるだろう。 (2007.12.10第2回北朝鮮人権週間に)
北朝鮮の第3世界国家を中心にした軍事およびテロ支援(言論報道)
1966年ウルグアイでクーデター加担疑惑で北朝鮮通商代表部を追放
1966年ガーナの軍事クーデターの時軍事要員派遣
1967年北ベトナムに空軍飛行連隊など派兵
1967年6月第3次中東戦争時シリアに大規模兵力派兵
*1968年1月朴正煕大統領暗殺のために北朝鮮特殊部隊が青瓦台襲撃
*1968年1月米海軍のプエブロ号が北朝鮮に拿捕される
1969年ケニアの野党のケニア人民同盟に反政府闘争を扇動
*1970年6月朴正煕大統領暗殺のために国立墓地の顕忠門に遠隔爆破装置を設置中失敗
1970年シリアに戦車兵と操縦士派兵
1970年9月コンゴで反政府破壊活動に加担した疑惑で北朝鮮大使など3人が裁判に回付され外交関係断絶
1970年11月ウルグアイでゲリラ団体の統合を推進
1971年ブラジルとチリに反政府ゲリラの訓練教官派遣
1971年6月アメリカ国内の黒人過激分子1,200人の「黒い豹団」にゲリラ戦術教範支援
1972年南イエメン(共産政権)にゲリラ教官派遣
1972年英国の北アイルランド共和国軍(IRA)に軍事要員を浸透させ反政府闘争の訓練指導(1972.6 BBC放送)
1972年6月エジプトでカイロ大学生を使嗾して反政府デモ扇動疑惑で北朝鮮大使追放
1973年パレスチナにゲリラ教官派遣
1973年パラグアイで反政府軍部の蜂起を扇動
1973年4月西独内最大テロ団体の「バダ・マインホプ団」が北側に軍事支援を要請
1973年6月チリで北朝鮮工作員が反政府ゲリラ団体のMIR(左翼革命運動)に加担疑惑で追放
1973年10月第4次中東戦争時シリアとエジプトに派兵
*1974年8月文世光が朴正煕大統領を狙撃し、大統領夫人陸英修女史が死亡
1974年9月アルゼンチンで南米の共産化を目的に南米左翼団体協議会を構成
1975年ザイールに軍事教官団派遣
1975年シリアに空軍教官派遣
1975年5月コスタリカで北朝鮮工作員4人が反政府学生示威を煽動した嫌疑で逮捕
1975年6月米国から分離独立を主張するプエルトリコ共産党政治局員のフアン・メデスに米国独立200周年(1976年)を契機に反米テロを使嗾
1975年9月エジプト駐在北朝鮮武官が反政府スパイ団事件と関して追放(追放された玄柱庚はその後板門店の軍事停戦委員会の北側首席代表になる)
1976年4月レバノンで北朝鮮要員らが左翼過激派に反政府テロ活動支援
1976年アルジェリアにゲリラ教官派遣
1976年ギアナ(南米)にゲリラ教官派遣
1976年11月ローデシア(アフリカ)の黒人ゲリラの顧問官として教官派遣
1977年トーゴにゲリラ教官派遣
1977年ラオスにゲリラ特攻隊派遣
1977年4月ペルー駐在北朝鮮工作員が反政府女性ゲリラ20人を訓練
1977年4月ネパールで北朝鮮外交官が政治犯15人の脱獄を幇助
1977年リビアに軍事教官派遣
1977年エチオピアに軍事教官を派遣、民兵訓練
1978年タンザニアに革命学校を設立、ゲリラ養成
1978年ペルーにゲリラ教官派遣
1979年10月インドASEM州のナガランドゥ地方で反政府暴動鎮圧時北朝鮮軍事要員4人逮捕
1980年アルジェリアにゲリラ教官派遣、人民解放戦線指導
1980年パキスタンに戦車教官を派遣
1980年9月勃発したイラン-イラク戦争時北朝鮮軍(将校)がイラン側に参戦、革命守備隊を指揮
1981年3月ニカラグア反政府ゲリラ団体に指導要員を派遣
1982年6月パナマ政府は北朝鮮要員5人を反政府破壊活動疑惑で追放
1982年6月インド内務省が大学生洗脳工作疑惑で北朝鮮工作員1人を追放
1982年7月イスラエルがレバノンで逮捕した80人のテロリスト中PLOの軍事顧問団の北朝鮮要員24人生捕、北朝鮮軍25人は射殺(北朝鮮教官300人がゲリラ12,000人養成)
1983年ジンバブエにゲリラ教官130人派遣
*1983年10月ビルマを訪問中の全斗煥大統領暗殺のためにアウンサン廟に遠隔操作爆弾設置、随行員多数殺傷
1984年-86年パレスチナにゲリラ教官、シリアには軍事教官派遣
1987年-89年ボリビアにケリルロおよびテロ訓練教官派遣
*1987年11月大韓航空KE-858機に対する空中爆破テロ
1989年-91年ギニアビサウに軍事教官派遣
1989年-91年スーダンに軍事教官派遣
1989年-91年ベナンに軍事教官派遣
1990年シリアに軍事教官派遣
司会
櫻井よしこ
北朝鮮の実態について話し始めると、きっと憤りが沸々と沸いてきて止まらない。そんな感じを受けた。次に、救う会の拉致問題プロジェクトの委員で、北朝鮮の軍事問題、拉致問題に詳しい、ジャーナりストの惠谷治氏にお願いしたい。
3-4 惠谷 治 早稲田大学客員教授・救う会拉致問題研究プロジェクトメンバー
研究報告
金日成による拉致指令の全貌 ( 金正日以前の拉致工作機関の実態解明 )
北朝鮮による拉致犯罪について、お手元の図版を作った(救う会作成8ページパンフ所収)。金正日は、1975年に3号庁舎の大検閲を行う。それ以後拉致が活発になったという事実がある。また、75年以降の拉致問題はある程度はっきりしているが、日本人に関して言えば、1963年の寺越事件3人の拉致があり、1970年の加藤久美子さん、73年の古川了子さんが拉致に間違いないとされている。しかし、個人的には納得できなかった事情がある。その時に今回、李美一理事長から発表があった金日成の拉致指令の話を聞き、また各氏の分析により、北朝鮮は1945年以来拉致をやってきたことが分かった。
金日成が1946年7月31日に、「南朝鮮からインテリを連れてくることについて」という教示を出した。これは破廉恥にも金日成全集に活字として残っている。その中で、「同志たちも知っているように」という言葉が出てくる。そして「該当機関に指示してきちんと対策をとる」と話している。1946年7月というのは、朝鮮解放から1年も経っていない。この段階で同志たちに語りかける。「同志たちが南朝鮮に行き、しっかりと自覚して慎重に行動し、与えられた任務を立派に遂行して、無事に戻ることを願っています」と。解放1年も経たないうちにこれほどの指示を出している。この「同志」とは誰だ、「該当機関」とは何だと注目してみた。
朝鮮民主主義人民共和国は、1948年9月9日に樹立されている。その7か月も前に朝鮮人民軍が創設されている。国家も成立していない2年も前に拉致指令を行っている。金日成は1940年からソ連にいた。私が知る限り、45年に帰国する前、モスクワに2回行っている。その段階で、文献資料で確認はできないが、ゲーペーウー(GPU、今のKGB)という秘密警察学校で訓練を受けていたと思っている。1945年9月22日に平壌に帰国した。それからわずかな時間で拉致をまず企画した。その要員を養成する。そして様々なロジスティックス(兵站支援業務)があって工作員が派遣されたプロジェクトだ。
そこで、この工作員たちは誰なのか。金日成がまだ帰国していない1945年9月13日に、対南工作機関である金剛学院が創設された。また、46年1月3日に軍幹部を養成する平壌学院が創設された。そんなに早くはできていないという文献も多数あり、情報が混乱しているが、これは中間発表である。この時期、北朝鮮には保安隊といういわば軍隊しか武力機関はなかった。行政機関としては保安局があった。従って、最初の韓国人拉致指令は、金日成が金剛学院ないしは平壌学院を卒業した工作員に対して出し、それをサポートした機関は保衛局ないしは保安隊であろうというのがとりあえずの結論である。
北朝鮮は、国家が成立する以前に軍隊すなわち国軍を成立させており、謀略機関・工作機関を成立させた国だということだ。その誕生からして謀略国家・工作国家である。
朝鮮戦争拉北者については、先ほども韓国人拉致被害者について報告があった。では、日本人拉致がいつから始まったのか。確認されているのは1963年だ。拉致の目的でよく知られているのは、日本人化教育のための教官だが、最も考えられるのは遭遇拉致だ。目撃された証拠を消すための拉致は常にありえる状況だ。
日本に入ってきた北朝鮮の工作員が最初に逮捕された事件、公安当局が第一次北朝鮮スパイ事件と呼ぶ事件は、1950年9月9日、朝鮮戦争が起きてすぐに大量の逮捕者があった。この時の主犯は、1949年8月に日本に密入国している。以来、今日までおよそ50件くらいのスパイ事件があった。
この中で、工作員が日本に最も古く潜入したのは、1949年5月だ。朝鮮民主主義人民共和国が樹立された約8か月後には、もう日本に工作員を送り込んでいる。スパイ事件を検討すると、49年以降毎年ある。まず工作員を選抜する。当時は、日本時代経験者が多数おり、日本語を話すことでは何ら不自由がなかった。暗号の解き方や通信教育をするだけで送り出せた。しかし、60年代に入るまで毎年リクルートされ、潜入し、逮捕されている。約15件あるが、これは氷山の一角で、公安当局に逮捕されずに潜入、脱出した工作員がたくさんいたと思う。その中で、遭遇拉致、つまり目撃されて連れて帰ることがあったと十分考えられる。
1978年から北朝鮮では、金正日の命令で「名もなき英雄たち」という映画が20本くらい作られる。その中で、朝鮮戦争中に日本に潜入した工作員が日本人を連れて行くという場面がある。これは在日朝鮮人かもしれない。そうしたことが演出であれ、事実に基づいたことであれ、映画にして、人々がそれで納得するというのが北朝鮮だ。朝鮮戦争中に日本人が拉致されたとしても何も不思議ではないことを物語っている。
韓国に関しては、基本的には同じだが、日本に送り込む工作員について見た場合、1950年代から60年代にかけては、逮捕された工作員はほぼ全員が社会安全部あるいは内務省だ。これは行政機構の名前の変更で同じ部署だ。当時は内務省の工作員で、党の工作員は一人もいない。これは何を物語るか。1975年以降は、ほぼ党の工作員が活躍している。金日成は1956年に、「行政機関の活動が忙しくて党の活動ができなかった」と告白している。つまり党は、1956年あるいは60年くらいまでは、日本に関してはほとんど工作員を送っていないかもしれない。その分、社会安全部・内務省系の工作員が送り込まれてきた。
また、先ほどの「韓国人50万人拉致指令」で活躍したのは朝鮮人民軍偵察局で、個人のリストが作成され、この男を連れてこいという「指名拉致」があった。重要人物の場合、特に偵察局員が拉致したと思われる。金日成が1958年4月6日、「偵察員10項目」という教示を出している。
この中で、偵察員というのは、韓国に行って軍事偵察をする、テロをすることが任務だった。今もそうだ。その中で、第5項目に、「偵察兵は英語、日本語及び南朝鮮各地の方言を習得しなければならない」とある。本来偵察員は南に入るだけで、日本語はさほど必要なかった。英語に関しては在韓米軍があるので当然としても、日本語があることから類推すると、偵察員も日本に潜入してきたと考えられる。1971年には有名な辛光洙が偵察局の工作員に選抜され、73年に日本に潜入している。その後、辛光洙は党の調査部に転属となった。日本に侵入した時の身分は、人民武力部偵察局偵察員だった。辛光洙の場合は日本語が話せるので、日本を教える必要はなかったが、偵察局ではこの時点(1958年)で日本語教官の必要性があったかもしれない。なお、当時はまだ日本語が上手な人はたくさんいた。しかし、秘密保持、情報保全のために日本人をさらうのが金正日以降のやり方なので、日本語教育があっても不思議はない。
1961年の「5・16」以降の党大会で、文書には、「非公然だった対南連絡局に内務省及び民族保衛省の対南工作機関を統合する措置がとられた」とあるが、ほとんどの文献は、この時点で対南連絡局が「新設」または「創設」されたと書いている。実際は、それ以前にこの部署があり、当時はソ連派の人たちが局長になっていたがほとんど力がなかったのを改めて浮上させたものである。この対南連絡局は、翌年の中央委員会で対南事業総局という組織に変わった。
私は、この1961年が、対日工作を含む広義の対南工作の転換点だったと思う。それらを3期に整理すると、1期は内務省及び偵察局、2期は対南連絡局ができて以降、局長の指示で韓国での武力テロが頻発した。1969年11月に開かれた3号庁舎拡大幹部会議において、金日成は、「必要なら日本人を包摂工作し拉致工作もすることもできる」と指示した。これは、金日成が拉致を公認、あるいはそれ以前の拉致も改めて認めたととれる。61年から69年までは金日成の工作というよりも、対南事業総局長の李孝淳などの仕業だった。この間に、日本人拉致では初めての寺越事件が起きる。また寺越事件と同じ年である1963年に海上保安庁が公表した一番古い不審船事件が起きている。従って、第2期から日本人拉致や日本への浸透が活発になったと考えられる。
69年の金日成教示以降、色々な事件が起きるが、金正日が75年に検閲を始めるまでが第3期となる。一つだけあげると、国家保衛部という秘密警察があり、金日成が韓国のKCIAをまねて作れと指示を出して1973年5月に作った組織で当時は国家政治保衛部だが、この保衛部は当時さかんに海外活動を行った。その過程で拉致被害者も出たと考えられる。
今回は中間報告だが、拉致を企画し、工作員を養成し、派遣するロジスティックスも念頭に置きながら北朝鮮の歴史を見ると、洪先生は、「北朝鮮は闇の世界で世界とつながっている」と言われたが、党大会や朝鮮戦争が終わった時点という教科書的な区切りとは別に、闇の現代史、対南工作史が見えてくるような気がする。
【提出論文】
金日成による拉致指令 ( 金正日以前の拉致工作機関の実態解明 )
惠谷 治(早稲田大学客員研究員・救う会拉致問題プロジェクトメンバー)
1975年6月、金正日は解放後初めて党の対南工作部署に対する「大検閲」を実施し、11月の総括会議で、「1950年代から70年代までの対南工作は、零点である」と断じた。そして、「対南工作に直接かかわった革命家、すなわち工作員の選抜、教育、訓練において欠陥があった」と指摘し、工作員の「現地化教育」の必要性を強調した。1976年以降、現地化教育のため、金正日の指令によって世界各地から組織的に外国人を拉致するようになった経緯は、多くの被害者本人の証言やさまざまな調査によって明らかになっている。
北朝鮮では解放直後に工作員の養成を開始
対南工作の一環としての「拉致」の原点は、1946年7月31日に金日成が南派工作員に与えた「南朝鮮からインテリを連れてくることについて」という教示である。
金日成教示1
「同志たちも知っているように、数日前におこなわれた北朝鮮臨時人民委員会常務委員会において、南朝鮮のインテリを連れてくるための措置を取るようにしました。<略>米軍政と南朝鮮反動派の警戒が厳しい条件下で、本人は陸路で38度線を越えてきても、家族は船を利用して安全に来れるようにするのがいいでしょう。該当機関に指示して、南朝鮮から来るインテリとその家族の道案内を、きちんとする対策をとるようにしましょう。私は同志たちが南朝鮮に行き、しっかりと自覚して慎重に行動し、与えられた任務を立派に遂行して、無事に戻ることを願っています」(『金日成全集』第4巻)
「朝鮮民主主義人民共和国」という国家が成立したのは、1948年9月9日のことであるが、国家が成立する7カ月前の1948年2月8日、国軍である「朝鮮人民軍」が創立されか。しかし、金日成が韓国人の拉致指令を下したのはその2年前のことだった。朝鮮解放直後の1945年9月13日、平壌の万景台区域に対南工作員養成機関「金剛学院」が創設され、1946年1月3日、南浦に軍幹部を養成する「平壌学院」が創設されたが、平壌学院においても対南工作専門の幹部が養成された。金日成が拉致指令を与えた工作員たちがどの学院の卒業生かは不明であるが、いずれにせよ、工作員養成機関が解放直後に創設されている事実は、北朝鮮が生まれながらの謀略国家であることを奇しくも証明している。
1950年に始まった朝鮮戦争において、金日成は50万人の韓国人拉致を計画し、「韓国戦争拉致事件資料院」の調査によれば、計画の5分の1にあたる9万6013人が朝鮮戦争中に拉致されたことが明確になっている。
証言1
「金日成は核兵器開発のため、人民軍偵察局の『共和国二重英雄』である李学文に命じて、李升基博士、都ウォンソン博士、都相禄院士たちを韓国から拉致して来た」
2002年に韓国に亡命した寧辺核開発センターの研究者だった李美 (仮名)氏は、以上のように手記に書いており、北朝鮮内部では、李升基博士たちは朝鮮人民軍偵察局によって拉致されたことは、周知の事実となっている。
証言2
「1951年3月、国連軍の反撃によって人民軍がソウルから退却するとき、青年を連れて来いという金日成の指示があり、この指示に私は引っかかった。24人の青年が民家に集められ、米が入ったリュックサックを背負わされ、黄海道の黄州まで連行された。黄州には『ソウル市青年訓練所』という人民軍最高司令部直属の『526軍部隊(遊撃指導処)』の工作員を養成する教育機関があり、私はそこで3カ月間の厳しい訓練を受け、『ルート工作員』として配置された。ルート工作員は、『政治工作員』を南に連れて行ったり、迎えに行ったりするのが任務だった」
1970年代に韓国に亡命した金東赫(仮名)氏は、「戦争拉北者」になった後、対南工作員に徴用された実体験を以上のように証言した。
朝鮮戦争前後の対日工作員は内務省所属
日本において最初に北朝鮮によるスパイが摘発されたのは、朝鮮戦争勃発直後の1950年9月9日の「第1次北朝鮮スパイ事件」である。内務省政治保衛局少佐だった許吉松は、他の2人の工作員とともに密貿易ルートを利用して、1949年8月、島根県隠岐島から密入国した。1966年7月に摘発された「杉並事件」の安珉濬は、1948年12月、島根県隠岐島から北朝鮮に密出国し、2カ月間の工作員教育を受けた後、1949年5月、ノルウェーの貨物船で名古屋港から不法入国し、北朝鮮を行き来しながら17年間も工作活動に従事していたベテラン工作員だった。また、都島事件(1968年11月)の鄭基龍は、1951年4月下旬、大阪港から密入国し、15年以上も工作活動を続けていた。
「第2次北朝鮮スパイ事件」と呼ばれ、1953年9月に警視庁に逮捕された金一谷は、社会安全省第1処第11部の広東駐在部員で、1951年12月に工作員に徴用され、約1カ月間のスパイ訓練を受けたのち、北朝鮮から広東に派遣された。そして、香港経由のパナマ船で、1952年5月14日、福岡県若松港から中国人名義の船員手帳で入国し、第1次スパイ事件の残党幹部と接触してスパイ網を再建し、米軍、保安隊(現自衛隊)、海上警備隊(現海上保安庁)などの情報を入手し、北朝鮮に報告していた。
朝鮮戦争中の1951年3月、内務省の政治保衛局が分離・独立して、「社会安全省」が創設されると、政治保衛局の諜報工作は社会安全省に移管された。しかし、社会安全省は1952年10月、再び「社会安全部」として内務省に吸収された。
北朝鮮は国家が樹立されて遅くとも8カ月後には、内務省の工作員を日本に潜入させており、以下のリストのように、その後も継続的に工作員を派遣している。北朝鮮のスパイ事件を点検してみると、いずれも戦前に日本に住み、ある程度の高等教育を受けた者を徴用し、工作員としての教育・訓練を受けさせた後、日本に潜入させている。
韓載徳、1953年4月に徴用、第3次北朝鮮スパイ事件(1955年6月)、スパイ教育
李基方、1953年9月に徴用(内務省政治保衛局)、三和事件(1964 年7月)、6カ月のスパイ教育
黄成国、1954年に徴用、日向事件(1981年6月)、3年間のスパイ教育
宋熺燉、1956年1月に徴用、江戸川事件(1965年8月)、8カ月間のスパイ教育
全基水、内務省社会安全部対外安全処第1局の、新光丸事件(1957年12月)
姜乃坤、第4次北朝鮮スパイ事件(1958年10月)、新浦で3カ月間のスバイ教育
趙昌国、1959年6月に徴用、滝事件(1959年7月)、スパイ教育を受ける
金俊英、1959年7月に徴用、浜坂事件(1960年9月)
崔燦寔、1960年6月に徴用、大寿丸事件(1962年7月)、4カ月間のスパイ教育
薫吉模、1961年2月に徴用、薫グループ事件(1964 年5月)、4カ月間のスパイ教育
馬今鳳 1961年2月に徴用、酒田事件(1963年5月)、6カ月間のスパイ教育
北朝鮮において1978年から81年にかけて制作された映画『名もなき英雄たち』シリーズのなかに、朝鮮戦争中に日本に潜入した北朝鮮の工作員が、日本人を無理やり密出国させる場面があるという(筆者は未見)。朝鮮戦争中に日本人(あるいは在日朝鮮人)を拉致するシーンがあるということは、そうした事実があったためか、仮に演出だったとしても観客が納得する状況であるのが北朝鮮社会である。1950年以降、多数の北朝鮮の工作員が潜入し、スパイ事件で摘発されている事実を考えると、当時から日本人を拉致していた可能性は考えられるものの、まだ具体的な事例は明らかになっていない。
金日成は、1956年まで政府機関の形成と行政活動が忙しくて、党内活動に専念できず、党を掌握していなかったことを認めている(「党事業を改善し、党代表者会の決定を貫徹することについて」金日成著作集第21卷)。朝鮮労働党は朝鮮系ソ連人、南労党出身者、中国からの帰還者である延安派に牛耳られていたため、金日成は首相である立場を利用して、政府機関や人民軍の組織拡充に力を注いでいたようである。それまで日本に潜入した工作員のほとんどがが、内務省(社会安全部)所属というのは偶然の一致ではなく、当時の対日工作は内務省が主導していたからである。
1958年4月6日、金日成は対南工作員の基本要件を10項目にまとめた「偵察兵教示」を提示して、偵察局の任務を明確にした。金日成による10項目の偵察兵教示は、現在でも偵察兵(対南工作員)の指針とされている。
金日成教示2
(1) 偵察兵は、いかなる天候と季節条件のもとでも鍛錬し、昼夜の区別なく険しい山岳で肉体を鍛えなければならな