国際会議「北朝鮮による国際的拉致の全貌と解決策」全記録
1-1 北朝鮮で出合った拉致被害者
崔 銀姫氏(元女優・韓国人拉致被害者)
以下は、2006年12月13日に開催された「国際会議?北朝鮮による国際的拉致の実態と解決策」に出席予定でありながら、崔銀姫氏が出席できなくなったため、12月8日、ソウルに同氏を西岡力・救う会副会長が尋ね、ビデオを撮り、国際会議で報告するとともに、その全内容を西岡副会長が翻訳したものである。
櫻井(司会) 崔銀姫さんは、ご主人の映画監督、申相玉さんとともに、1978年に拉致され、86年にウィーンで脱出するまで北朝鮮で金正日の映画製作に協力をさせられていた方です。身近に金正日の姿を見、そして北朝鮮に捕われていた間に、マカオの孔さんとも話したりしていました。拉致問題が、日本やタイや韓国だけの問題だけでなく、実は中国にも及んでいたことをきちんと証明してくださる方です。韓国人女優の崔銀姫さんのインタビューを聞きます。
崔 銀姫氏証言(聞き手・翻訳:西岡力救う会常任副会長)
日本人拉致被害者について
私は1978年1月に北朝鮮に拉致され、1986年3月に脱出し米国に亡命しました。
北朝鮮にいたとき、いわゆる招待所というところで5年間、洗脳教育を受けました。そこにいた間、理髪師のおじさんから日本人女性がある招待所にいるという話を聞いて、とてもうれしかったです。
日本の雑誌、『主婦の友』の付録をその理髪師のおじさんを通じて1ヶ月間、借りて読みました。あとで返しましたが、その日本人女性が何をしているのかとたずねたところ、日本語を教えている、日本語の先生をしていると聞きました。
そこでの生活とは、お互いに隣の家を行き来できず、ばれてしまえば大変なことになるのでそんなことはできないのですが、私とその日本女性が住んでいたところがとても遠く離れていたため、一度会いたかったのですが、残念なことに会うことはできませんでした。
それは1979年、1980年ぐらいのことでした。私はそのとき、元興里の招待所にいて、日本人女性は東北里にいました。私は、はじめ東北里にいて元興里に行ったのですが、そのあとに日本人女性が東北里に来ているという話を聞きました。
中国人拉致被害者ミス孔との出会い
偶然、散歩していて見たところ、私と同じような良い服を着た女性と出会いました。しばらく見つめてみると北朝鮮女性ではないようで、中国女性のようでした。
近づいてお互いに、どこから来たのか、自分はマカオから来た、そうですかなどと話しました。道で長く話を交わすことはできません。もし見つかると大変だからです。そこで、明日もう一回昼ご飯のときに会おうという約束をして別れました。
昼食を食べたあとには必ず、散歩することになっていました。消化がよくできないからでした。そこで、ある場所で会おうと約束して、その日は別れて、次の日に会って、それからほとんど毎日、秘密で会いました。
それで、ミス孔がマカオからどのように拉致されてきたのかという経路を詳しく聞くことができました。またミス孔も、私が香港で拉致されたときに新聞、雑誌にたくさん出たため、私という人間を知っていたのです。本当の姉妹のように秘密で会い、自分の過去の話もしました。
(崔先生が先に拉致され、ミス孔があとから拉致されたから、崔先生の拉致事件のニュースを知っていたのですね)
はいそうです。
そのようにお互いに慰め合っていたのですが、私が元興里に行くことになったために、別れることになりました。
ミス孔と会っていたのは東北里です。79年から80年ころです。
別れたあとのミス孔の消息は知りません。
ミス孔の拉致の経緯
ミス孔は宝石店で働き、副業で観光案内をしていました。美男子の青年二人が宝石も買ってくれたりして知り合いになったといいます。
よい顧客ですから親しくなりました。それで観光案内をしてくれと頼まれて、ボートに乗ったところ、そこにもう一人の女性も乗っていました。ミス孔は観光案内だからと疑いもせずにボートに乗りました。
ところが、観光案内のために乗ったのにボートがおかしな方向に向かっていくので当惑してどこに行くのかとききましたが、そのまま海側に行き、大きな船に乗せられて連れてこられたというのです。
もう一人の女性は社会経験のある女性で、10歳上でした。そのときミス孔は19か20歳で若くて、怖くて震えてばかりいましたが、もう一人の女性は、なぜ私たちを連れて行くのかと激しく抗議をしたといいます。
(その女性もマカオ人ですか)
はい、マカオ女性です。キャバレーのようなところにいた女性のようだったといいます。はじめて偶然そこで知り合って、二人で拉致されたのです。
インドネシア大使館に逃げ込む
外国から連れられて来られてから、平壌に外国人だけが出入りできる商店がありますが、その商店に時々案内されたそうです。その機会に見てみるとインドネシア大使館があったので、そこに飛び込んだといいます。
はじめは助けてくれるといっていたが、一時間くらい過ぎてから、助けてあげられない、あなたたちは中国人で、国際関係があるので助けることは難しいといわれ、ふたたび北朝鮮に引き渡されたそうです。
そのあと、食事で拷問をされました。あそこでは殴ったりするのではなく、食べ物を使って拷問します。食事を少しだけにして、食べることのできないようなひどいおかずを出す。そのように苦しめられていたとき、もう一人の女性が、こんなことするなら私たちを殺せ、と泣き叫びました。そのあと、彼女は別のところに連れていかれてしまった。
ミス孔が一人で東北里に残ったのです。ミス孔は頭がいいので、このままではだめだ、言葉が通じず、私が朝鮮語を学ばなければならないと考えて、朝鮮語を教えて欲しいと申し出たところ、そうか、よく考えたといわれたそうです。中国語を教え、朝鮮語を学んだ。私と会ったときには朝鮮語をある程度、できました。それで意思が通じたのです。
最初、そのようなことがあったあとは、ご飯を少しだけ与えられ、私たちでも食べられないくず野菜のようなものを少しだけ与えられ、そのように拷問されたといいます。それで怖くなって、このまま誰にも知られずに死んだらあまりにも口惜しいと考えて、言葉を教えてくれといったのです。言葉を学びはじめてからは、再び待遇がよくなったそうです。
ミス孔の家族と信仰
ミス孔から家族について聞きました。
もともと中国本土に住んでいて、お父さんは教師をしていました。お父さんは中国本土にそのまま残り、お母さんと弟と3人でマカオに来たといいます。
お母さんが針仕事をしながら自分たち2人の兄弟を学校に通わせてくれました。ミス孔は高校卒業後に進学せず、弟を大学で勉強させるために働きだしたところ、このように拉致されたというのです。
ミス孔はカソリック信者でした。自分はカトリックを信じているから、姉さんも一緒に信じようといいました。私は、こんなところでどうしてカトリックを信じるのか、ここでは宗教は阿片だというのにどのようにして信じるのかとたずねました。
彼女は、自分が秘密で私に臨時に洗礼を授けることができるといって、二人で山の中に入り、落ち葉がたくさん積み上がっているところに、首だけ出して入り二人でお祈りをし、そこで彼女が洗礼を授けてくれました。そのとき私の洗礼名をマリアンヌとつけてくれました。自分はマリアだと教えてくれました。
彼女は二人のMのイニシャルを入れた首飾りをプレゼントしてくれました。その首飾りを私はいまも持っています。そのように、本当の姉妹よりも親しく過ごしました。そのあと、私は米国に行ってから正式にカトリックに帰依しました。
(ミス孔のマリアという洗礼名はマカオの家族も知らず、教会で調べてもらって分かったといいます)
そうでしたね。
私はいまでもミス孔についてお祈りを捧げています。健康だけでもよくいてくれること、可能なら自由世界に出てきて父母と会う機会が与えられればよいと、祈っています。
ミス孔との約束
(ミス孔は家族に会いたがっていたでしょう)
もちろんですよ。私たちはこんな約束までしました。なんとかしてここから脱出しよう。二人のうちどちらが脱出しても、先に脱出した方が、世界にこの非人道的な事件を告発しようと約束しました。
私が先に脱出したのですが、もちろん本には書きましたが、このように正式にお話をする機会はなかったのでできませんでした。本当に今回、国際会議でこのようにお話しできることは幸いだと考えています。
ミス孔が1日でも早く自由世界に出てくる機会があればよいですし、健康でいてくれることを願っています。
(2006年3月にミス孔のお父さんと弟さんとお会いになりましたよね)
はい。ミス孔はお父さんとよく似ています。典型的な目が細い顔はお父さんにそっくりです。
金正日に結婚させてやるといわれたミス孔
(ミス孔は、いまどうしていると思いますか)
金国防委員長が嫁に出してやると言ったといいますから。ミス孔もときどき金正日の会食に招待されていました。直接、いいところに嫁に出してやるといわれたといいますから、もしかしたらいい人と会って結婚して幸せに暮らしているかもしれません。
あるいは、あのときのように両親に会いたくて毎日泣いて暮らしているかもしれません。彼女は胃腸がよくなかったです。悩みが多くてそうなったでしょう。薬を飲んでいました。とにかく、健康でいてくれればよいのですが。
ヨルダン人について
ヨルダン人は直接会ったのではなく、窓から車両が通りすぎて騒がしいので眺めてみると、遠くのほうで指導員と女性の二人が口げんかをして通りすぎるのが見えました。あとで、ヨルダンから捕まえられてきた女性だと聞きました。
私は、『主婦の友』から編み物をたくさん学び、もともと編み物が好きだったので、手編みでジャケットもつくり、帽子をつくりそれを着て出歩いたのです。彼女は偶然その私を見た様子です。私はそんなふうにしか彼女を見ていないのですが、彼女は私をしっかり見たようでした。
彼女の世話をしている人がきて、こちらの先生は毛糸の帽子をどこで買ったのですか、とてもよいものに見えると連絡が来ました。正式に行き来はできず、ばれたら大変なことになるので世話をする人たちも普通は怖くてそんなことは取り次がないのですが、あまりにも頼んだので、私のところに来てそんな話をしたのです。
そのあと、帽子を編んで贈り物しました。お返しにスカーフをプレゼントしてくれました。会うことはできませんでしたが、そのような交流がありました。
東北里でのできごとです。その女性がどこかに行ったあとミス孔が来ました。
ヨルダン国王の訪朝
(ヨルダン女性との交流があったとき、ヨルダン国王が平壌を訪問していたのですね)
そうです。ヨルダン国王が来ました。私は内心、自国の女性が強制拉致されているのに、外交的に国交を結ぶのとは別問題なのだ、嘆かわしいことだと考えました。
フランス人拉致被害者とマレーシア人拉致被害者について
(それ以外の拉致被害者とは会っていませんか)
会ってはいません。話でだけ伝え聞いています。
フランスからも拉致されたそうです。その女性は教授だそうでした。北朝鮮の青年が結婚しようといって、新郎の国をはじめて訪問するという形で北朝鮮に来たといいます。来てみると新郎はいなくなり、自分は監禁状態におかれたので、強く抗議して国際的に訴訟すると言ったようです。インテリだからそこまで考えたようでした。そのような話だけを聞いていて、そのあとどうなったかは分かりません。
(その北朝鮮青年は東洋の富豪の息子のふりをしたのでしょう)
そうです。
(フランス人について聞いた時期はいつですか、やはり東北里ですか)
いつ拉致されたのかは分かりませんが、その話は80年、81年に聞きました。
(マレーシア人拉致被害者についても聞いていらっしゃいますね)
話だけを聞いて、会ってはいません。
(マレーシア人夫婦がいるという話ですね)
はい、そうです。
(マレーシア夫婦についてはいつ聞きましたか)
私が東北里にいた時です。
拉致被害者の待遇
待遇はよかったです。食事はコックが一人に一人付き、掃除などをする人と合わせて2人がいました。一軒に拉致被害者が一人で暮らしました。生活は不自由なく、よくしてくれました。けれども行動の自由はありませんでした。
国際会議参加者へのメッセージ
本当にひどいことです。
私はこのように自由世界に戻れ、故郷に帰り家族とも会えて、悪夢を見たような気持ちですが、まだ、愛する家族を奪われ苦しんでいる人たちにどのような慰めの言葉をおかけしたらよいかわかりません。
今回の会議が、いまだに北朝鮮にいる方々が一日でも早く自由世界に出てこられる契機になればよいと思います。